見出し画像

毎日連載する小説「青のかなた」 第176回

(176)

「じゃあ、おやすみ」
「うん」

 レイは車に乗ろうとしたけれど、なぜか、またすぐに光のもとに戻ってきた。

「どうしたの?」

 言い終わらないうちに、レイの手が背中に回った。ぎゅう、と味わうように光を抱きしめる。こうしてハグできるのが嬉しくてたまらない。そんなレイの気持ちが伝わってきた。光も彼の背中に腕を回して抱きしめる。
 レイの体に接している部分から、ゆっくりと体の中が満たされていくのがわかる。宝石みたいにきらきらしてカラフルだけれど、少しも固くない、どこまでもやわらかくあたたかいものが、つま先から頭のてっぺんまでをいっぱいに満たしていく。
 光の人生は、光が楽しむためにあるのよ。いつかの祖母の言葉を思い出す。祖父母から、父から、明人から、思南や風花や朝之から、トミオから、そして――母から。今までの人生で出会った人たちからもらった宝物のような言葉が、光の中でひとつに帰結していくのがわかる。
 すべてはこのためだった。この出会いのために、光の人生はあった。
 お互いのぬくもりとしあわせを目いっぱい味わって、二人はようやく離れた。

「じゃあ、今度こそ、おやすみ」
「うん。おやすみ」

 レイの車が見えなくなるまで見送ると、光はアパートに戻った。思南と風花がもう仕事から帰ってきていて、キッチンで何か作っている。光の顔を見ると、二人して「おかえりー!」と笑顔を見せた。
 レイと一緒に暮らすことになったとか、二人に話すべきことはたくさんある。でも、口をついて出たのはまったく違う言葉だった。

「私……描く」
「んっ?」
「描く。しばらく部屋から出てこなくなるけど、心配しないで」

 自分の寝室に入ると、すぐに祖母からもらったキャンバスを立てかけた。描かなきゃ、と思った。
 このあたたかい感覚が体の中に残っているうちに、描き始めないと。体のもっと奥の奥から湧き上がってくる、この気持ちをすぐに形にしないと。
 ビーチで描いた下絵をもとにして、キャンバスに鉛筆を走らせた。絵の具で仕上げるので、鉛筆ではざっと形を取るだけだ。レイの体の輪郭や表情、背景となるビーチの水平線や波打ち際を鉛筆で薄く描いたら、キャンバスから距離を取って全体を俯瞰する。手直ししては俯瞰して、全体のバランスが取れたら、絵の具での本描きに入る。
 チューブの絵の具をパレットに広げては、少しずつ混ぜていった。これだと思う色ができたら、筆に取ってキャンバスに乗せていく。ひたすらキャンバスに向き合い続けていると、次第に時間の感覚がなくなってきた。

いいなと思ったら応援しよう!