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毎日連載する小説「青のかなた」 第88回

(88)

 パラオに来て、まもなくひと月。
 光は新しい挑戦をすることになった。

「光さん、早くおいで!」

 ボートから少し離れたところでぷかぷか浮いていた風花が、光に向かって手を振る。水着姿の彼女は、マスクにシュノーケル、それに足元にはフィンをつけていた。
 この日の海は穏やかで、風花の三メートルくらい下にある珊瑚がはっきり見えた。きれいではあるが、今の状況では見とれてもいられない。

「やっぱり無理……こんな深いところ、入れないよ」

 そう弱音を吐くと、そばにいた思南が「大丈夫だよー」と笑顔を見せた。

「光はライフジャケットつけてるから、溺れることないよ」
「でも、脱げちゃうかも……」

 仕事の量を減らした光が、一番最初にトライしてみたいと思ったのが「海に潜ること」だった。光にもダイビングができるかどうか風花に聞いてみたところ「まずスノーケリングから試してみよう」とのことだったので、こうして三人で休みを合わせてスノーケリングスポットまで来たわけだ。
 でも、いざ海に入る段階になると、やっぱり怖い。このあいだレイと一緒に行ったハネムーンビーチくらいの浅瀬ならいいけれど、いま目の前の海はどう見ても足がつかない深さだ。そんなところに飛び込んで、もし溺れたらどうしたらいいんだろう。

「風花ー! 光、ダメみたい」

 光がボートの縁を掴んで離さないのを見ると、思南がそう声を上げた。

「OK。今、そっちに行く」

 風花は体を折りたたむようにして、頭から水面に潜った。フィンをつけた両脚をゆったりと動かしながら、こちらに泳いでくる。青く透き通った水の中で、風花の蛍光ピンクのビキニが鮮やかだった。彼女の体は少年のようにすんなりとしているのに、ふしぎと色っぽい。その流れるような泳ぎといい、まるで絵本に出てくる人魚だ。見ていて、「うわあ……」と思わずため息がこぼれた。
 風花はボートのそばまで来ると、水面からざばっと顔を出した。短い髪から水が伝っている。マスクをおでこの方にずり上げると、彼女の大きな瞳がよく見えた。

「風花さん、すごい。人魚姫みたい」

 思ったことをそのまま言うと、風花に「あはは!」と笑われてしまった。

「そう。私、人魚なんだ。海は私の家みたいなもの。だから、一緒にいれば溺れないよ」
「本当?」
「うん。本当」

 怖いのは変わらないのだけれど、ちょっと、風花を信じてみたいような気がした。

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