毎日連載する小説「青のかなた」 第77回
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「光もおいでよ!」とレイが言うので、そろそろと水の中に足を踏み入れた。ぬるくて気持ちがいい。思えば、パラオに来てから何度も海を眺めたけれど、泳いだことはない。思い切って肩まで水に浸かってみると、肌にすっと馴染んでいくような感じがした。二人の様子を見た子どもたちも海に入ってきたので、一緒に水をかけ合ったりビーチボールでバレーをしたりして遊ぶ。
さんざん遊んだあと、光とレイは砂浜の上に腰を下ろした。子どもたちはまだまだ元気で、今度は父親と一緒に海で泳いでいる。赤ちゃんを抱いた母親が、その様子をやさしい眼差しで見守っている。
「いいビーチだね」
光が言うと、砂の上にあぐらをかいたレイが「でしょう」と笑った。
「レイさん……レイは、よくここに来るの?」
「うん。のんびりしたくなったときとか、悩んだときとか、きまってここに来るよ」
「悩むって、たとえば?」
「そうだなあ……このまま、獣医を続けていいのか、とかね」
「え……そんな風に考えることがあるの?」
「もちろん、あるよ。ときどき、ぜんぶ捨てて、この島で暮らしたいなって思うんだ。余計なものは何も持たずに、自分が食べるための魚を自分で獲って暮らしていけたらどんなにいいだろうって」
意外な言葉だった。レイはPDRでの仕事を気に入っていて、心から楽しんでいるのだろうと光は思っていた。
レイはそれ以上は語らず、「次は光の番」と笑顔を見せた。
「私?」
「そう。光の話を聞かせて。どうして、人の顔が描けないの?」
少し驚いた。いや、かなり驚いた。光は人の顔が描けないことをずっと隠し続けてきた。イラストレーターにとっては致命的な弱点で、汚点だからだ。描けない理由を聞かれたのはこれがはじめてだった。それも、こんな直球で。
レイは微笑んだまま、光の言葉を待っている。光はどこから話そうか悩んで、結局、はじまりから話すことにした。
「私、子どもの頃、沖縄に住んでたの」
「そうなんだ」
レイは特に驚いた様子もなく言った。
「沖縄の北部にある、名護市っていうところ。父は船に乗る仕事をしていたから、たまにしか帰って来なくて、いつも母と一緒だった。母は沖縄で生まれ育った人で、車を運転して県内のいろんなところに連れていってくれた。車で行ける離島のきれいなビーチとか、名護よりもっと北の、国頭村の森とか。家に帰ると、私はいつも外で見たものを絵に描いてた。下手な絵でも母が必ずいいところを見つけてくれて、褒めてくれるのが嬉しかった」