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毎日連載する小説「青のかなた」 第80回

(80)

「そうだったんだ」
「人の顔が描けないことから目を背けたまま、イラストの仕事についた。風景とか物なら描けるんだからそれでいいんじゃないかって思ってたの。でも、そうじゃなかった。絵って、本当はすごく怖いものだった。描いた人の心をはっきり映し出しちゃう。人が描けない私が、どんなきれいな風景画を描いても、なんだか空っぽなの。だから、もう……潮時かもしれない。仕事で絵を描くのも、趣味で絵を描くのも」
「……そう」
「私の話はこれで終わりだよ。長いこと聞いてくれてありがとう。ちょっと楽になった」
「ううん」
「次はレイの番ね」
「僕の?」
「うん。レイはどうしてパラオで暮らしてるの?」
「そうだなあ……」

 レイは空を見上げて、考える顔になった。かと思うと、遊びを思いついた子どもみたいな目で光を見る。

「その前に、光にひとつ質問!」
「なに?」
「ここは一体どこでしょう!」
「ここ……?」
「そう。ここはパラオ諸島のうちの、どの島だと思う?」

 光は目の前のビーチを見渡した。ものすごくきれいな海だけれど、パラオ諸島にはきれいなビーチなんていくらでもある。

「全然わかんない」

 正直に答えると、レイは「あはは!」と大きく口を開けて笑った。

「ここはね……ペリリュー島だよ!」
「……え」
「ペリリュー島だよ」
「いやいや、嘘でしょ。ペリリュー島なら、このあいだトミオさんと来たばっかだよ。波止場だって違うし……」
「ペリリュー島で戦跡を巡るときは北の波止場から上陸することが多いんだ。今日、僕たちがボートを停めたのは南の波止場。北とは景色が違う」
「そう……なの?」
「うん。そうなの」

 レイは微笑んだ。

「ここはペリリュー島のハネムーンビーチ。僕の一番お気に入りの場所で、思い出の場所」
「思い出?」
「そう。僕がはじめてパラオに来たのは、大学を出て、札幌の動物病院で働きはじめたばかりの頃。祖父母を連れて、パラオを旅行したんだ。ペリリューにも来たよ。千人洞窟にも入った」
「どうだった?」
「泣いたよ。情けないことにね。それに体調が悪くなった。昔この島で何が起きたのか歴史として知っていたけど、いざそれを実感すると受け止めきれなくなったんだ。僕はアメリカ人として生まれたけど、母が北海道の人と再婚して、その人の実家で暮らしたから、母以外の家族はみんな日本人なんだ。英語も話すけど、日本語はそれ以上によく使う。だから、日本とアメリカがそう遠くない過去に惨い殺し合いをしていて、その名残を目の当たりにしたとき、もう本当にどうしたらいいかわからなくなった。涙と鼻水とゲロが大洪水みたいな状態だった。見かねたのか、一緒に来ていたツアーガイドが僕や祖父母をここに連れてきてくれたんだ。そして、この島の人たちと一緒にごはんを食べた」

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