毎日連載する小説「青のかなた」 第136回
「ううん。知らなかった」
「だよな。俺も知らなかった。でも、日本は世界の中でも精神科の病床数が多くて、患者の入院日数の長さも群を抜いてるんだって。俺が入院してたのはもう七年近く前だけど、そのときに入院してた人たちは、まだあの病棟にいるかもしれない。今の日本には、鍵のついた病棟で一生を過ごす人たちが、本人の意思に関係なく拘束されている人たちがゴロゴロしてるんだ。そう思うとすげえ怖い国だよな」
「私も、何かひとつ違ってたらそうなっていたかもしれないな」
自分の体と心の感覚が鈍っていたというのは、光も同じだ。パラオに来て思南や風花に指摘されるまで、体が凝っていることにも冷えていることにも、そしてひどく疲れていることにも気づかなかった。それがどれほど危険なことか、今ならわかる。
「そう。日本は、双極性障害だけじゃなくて、精神障害全般に対する偏見が強い。どこか隔離しとけばいいって思ってるところがあるだろ。でも、本当は誰にでもそうなる可能性があるんだ。俺は、あの薄暗い隔離室を忘れない。ひとつ足を踏み外したところに、ああいう世界が口を開けて待っていることを決して忘れない。だから、自分の体と心を何よりも大切にするんだ。そういう生き方をしようと思ったら、もう前のような生活には戻れなかった。とことん自分にやさしい生き方をしようと突き詰めていったら、いつの間にかパラオで暮らすことになってた」
「そうだったんだ」
朝之が日本人とは思えないほどパラオが似合う理由が、少しわかった気がした。
「もちろん、パラオはパラオで大変なことは山ほどあるよ。観光以外の産業が発展しないからずっと貧しいままだし、貧しいがゆえにドラッグや犯罪が増える。農業が発展しないからインスタント食品にばかり頼るようになって、今や人口あたりの肥満率が世界トップクラス。俺たちとは逆で、パラオの若い人が日本に行って人生が開けることもあるだろう。それでも、当時の俺にはここが合ってたんだ。この島の絶妙なゆるさが、疲れ切った俺をきれいに洗ってくれた。きれいになってすっきりしたら、スーっていう素晴らしい人に出会えた」
朝之の横顔はやさしく微笑んでいた。思南のことを思い浮かべているのだと、その表情を見ているだけでわかる。