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毎日連載する小説「青のかなた」 第89回
(89)
「どうする? 海、入ってみる?」
「……うん」
マスクをつけて、思南に支えられながらボートの縁に座った。フィンを履いた両脚そろそろと海の中に入れると、水の生ぬるさが気持ちよかった。あとはお尻を落として海に飛び込むだけだ。
「大丈夫。ついてるよ」
風花の言葉で、覚悟が決まった。両手でボートの縁を掴んでお尻を上げると、そのまま海に落ちる。どぼん、とあごまで水に浸かったが、それは一瞬だけのことで、肩から上はすぐに水面に上がった。ライフジャケットの浮力のおかげだ。
「本当だ。溺れなかった」
そう呟くと、風花と、ボートの上の思南が声を上げて笑った。
「足、痛くない?」
風花が言う。事故の後遺症で左足が動かしにくいことは、彼女にも話してあった。
「今のところ大丈夫そう」
「じゃあ、スノーケルを口にくわえて。あごが疲れるから、マウスピースは強く噛みすぎない方がいいよ。準備ができたらうつ伏せになって。ゆっくりでいいから」
水面にぷかんと浮かぶようにして、うつ伏せになる。顔を水につけると、マスク越しに海の中が見えた。
そこは初めて目にする世界だった。青く透き通る水の底に、さまざまな形をした珊瑚礁が絨毯のように広がっている。その絨毯の上でお昼寝するように、魚たちがゆったりと泳いでいる。さっきの風花のような、色鮮やかな魚たちだ。まるで秘密の楽園だった。光は思わず体を起こして水面から顔を上げた。
「すごい! 竜宮城みたいになってる……!」
一緒に水面から顔を上げた風花は、それを聞くと笑った。光に向かって、手を差し出す。
「じゃあ、竜宮城の先に進んでみようか」
風花の手を握り、水面にうつ伏せになる。水を蹴ろうとすると、左足はやっぱりぎこちなくて、それでも、体はゆっくりと前に進んでいく。手を繋いでいる風花が力強く泳いでくれているおかげだ。思南もあとを追ってきて、三人で泳いだ。
水面に浮かんだ状態でじっくり見てみると、珊瑚はどれも面白い形をしていた。生姜にしか見えないものや、脳みそのように細かい皺のあるもの、マイタケのように扇状のもの。その珊瑚の周りで、蛍光ブルーのきれいな魚が小さな群れを作っていた。黄色と黒のストライプ模様の魚もいる。
ふいに、思南が珊瑚のそばまで潜っていき、「見て」と言うようにひとつの貝を指さした。鮮やかな紫色の貝だ。思南がまだ触れてもいないのに、貝は何か察したかのようにきゅっと口を閉じてしまう。それが面白くて、光は水の中にいることも忘れて声を出して笑った。