毎日連載する小説「青のかなた」 第35回
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「オツカレサマデース!」
明るいかけ声とともに、男性たちがぞろそろとやって来た。施設のメンテナンスの仕事をしているパラオ人スタッフだ。ランチタイムのはずなのに、なぜかみんなお弁当を持っていない。ふしぎに思っていると、一人の男性が魚を抱えて持ってきた。人の頭ほどもある大きな魚だ。どうするのかと思って見ていたら、彼らはまな板と包丁、それに日本にも売っているようなボトルに入った醤油をどこからか持ってきて、さっきの魚を大胆に捌きはじめた。
一体何が始まるんだろう。思わず見入っていたら、その視線に気づいたのか男性の一人が光を見た。さっき魚を持ってきた人だ。真っ黒に日焼けして、スリムな体つきをしている。目元のくっきりとした愛嬌のある顔立ちだが、その佇まいには部族のような迫力もあった。
「サシミ食べる?」
彼はくせのある日本語で言った。
「刺身?」
「そう。サシミ」
男性はまな板の上を指さした。そこにはさっきの魚がきれいな刺身になって並んでいる。
「こうしてショーユつけて、食べる」
男性は刺身を指で掴むと、それを小皿に入った醤油につけ、口に入れた。そして、光へ親指を立ててみせる。
「おいしい。あなたもやってみて」
「あ、はい。あの、お箸は……」
「ない」
「そうですか……」
光は指でこわごわと刺身をつまんだ。彼の真似をして、刺身を醤油につけて口に入れる。
「んん……!」
光が驚いているのがわかったのか、男性がニヤッと笑った。
「おいしい?」
「はい!」
淡白な白身魚だけれど食感がコリコリしておいしい。醤油はほんのり柑橘の香りがして、それが刺身によく合う。
「ショーユにパラオレモンの汁を入れた。だからおいしい」
「へー、パラオレモン……。お魚はどこで買ったんですか?」
そう尋ねると、笑われてしまった。
「買わない。とった」
「とったって、どこで?」
「そこで」
男性は目の前の海を指さした。よく見ると男性の髪は濡れている。まさか、自分で魚をとってきたというのか。この海から。
「うそー……」
「それが私たちのランチ」
男性はまたニヤッと笑った。
「私、カトウ」
「カトウさん。私は光です。雨田光」
「光。いい名前。光は希望とか、そういう意味でしょう」
「はい。そうみたいです」
「私のおじいさん、日本時代を経験した人。私によく日本語教えてくれた」
カトウは「もっと食べる」と言って、光に刺身を勧めてくれた。ちょっと迷ったけれど、このおいしい刺身をもっと味わいたくなり、お言葉に甘えることにする。
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