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毎日連載する小説「青のかなた」 第163回

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「お母さん……その人のことが好きだったの?」
「体の関係はないって言ってたよ。それが嘘じゃないことは二人の様子を見ていてわかった。男女の関係にある二人っていうのは雰囲気でわかるもんだろ。でも、だからといって許せるってものでもなかった。二人がどうして『一時間だけ』と決めて会っていたかわかるか? そうでもしないと制御できなくなるからだ。『ずっと一緒にいたい』って思ってしまうのを、止められなくなるからだよ」
「……」

 気がつくと、胸元のペンダントを握っていた。今の光には、どうやっても父の言葉を否定できない。
 レイが自分の祖父のことを話してくれたあの夜……彼と心が繋がったと感じたあの夜、私は何を願った?

 ――あと一時間だけ。あと一時間だけでいいから、この人と一緒にいたい。

 そう、望んだのではなかったか。

「許せなかった。体の関係を持ってた方が、まだいいと思うくらいだった。医者から、光の足に傷や後遺症が残るかもしれないと聞くと、光を置いて男と一緒にいた理子をいっそう憎く感じるようになった。離婚を決めたとき、理子はもちろん光と離れることを嫌がったよ。でも、俺が『母親失格だ』とか、『おまえに光は任せられない』だとか言って責めると、本当にそう思ったみたいだった。その気になれば親権を勝ち取れたかもしれないのに、裁判さえ起こさなかった。俺は理子の罪悪感につけ込んで、光を奪ったんだ」

 父の話を聞いていると左足が痛むような感じがした。事故のあと入院していたときのことは、もうほとんど記憶にない。でも、「ひーちゃん、ごめんね」と母が何度も繰り返していたのは、何となく覚えている。
 あれは、そういうことだったのか。母は、光が事故に遭ったのを自分のせいだと思っていたのだ。ずっと、ずっとわからずにいたことが、見えずにいたことが繋がったような気がした。両親の別れを決定づけたのは、光自身は大して気にも留めていないこの左足だった。

「俺が光を美大に行かせたいと、絵の道で成功させてやりたいと思ったのは、もちろん、おまえに絵の才能があると感じていたからだよ。片足が不自由でも仕事に困らないようにしてやりたいと思ったからでもある。でも、本当はそれだけじゃなかった。俺が光を引き取ったのは正解だったと、沖縄ではなく東京で育てたのは正解だったと、誰にでもわかる形で示したかったからだ。くだらないプライドだった。娘を復讐に使おうとしたんだ」

「復讐」という言葉が、胸にずんと重く響く。そんな言葉で自分の人生を語られるとは思わなかった。そんなもののために母から引き離されたのかと思うと、やりきれなかった。

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