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毎日連載する小説「青のかなた」 第19回
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トミオは光の手を取ると、温めるように両手で挟んだ。分厚くて皮膚の硬い手のひらは、亡くなった祖父の手の感触とどこか似ていた。
「光、本当によく来てくれたね。パラオでの時間を楽しんで。ここでしかできないことが、たくさんあるから」
トミオの手を握り返すと、光は頷いた。
「あの……トミオさん。ひとつ聞いてもいいですか」
「もちろん」
「私、滞在中にパラオの絵を描いてほしいと祖母から頼まれているんです。でも、まだモチーフが決まらなくて」
「そう。はるちゃんは何を描いてほしいと言っている?」
「それが、祖母は私に決めてほしいようなんです。子どもの頃、祖母がパラオのどんなところが好きだったのか、何を表現したら喜ぶのか……知っていることがあれば教えてもらえませんか?」
それはトミオの家に行くと決めたときから、彼に聞いてみたいと思っていたことだった。トミオはしばらく考えるような顔をしていたけれど、やがてまっすぐに光の目を見た。
「ごめんね、光。僕は何も教えてあげられない。それはきっと、きみが自分で見つけなければならないことだから」
「私が?」
「そう。光に描いて欲しい絵があるのなら、はるちゃんはそれをオーダーするはず。でも彼女はそうしなかった。そのキャンバスはきっと、はるちゃんが光に与えた宿題。他の人が問題を解いてはいけない」
トミオの眼差しは相変わらずやさしいけれど、言葉はきっぱりとしていた。
「でも、僕にもひとつだけわかることがあるよ。はるちゃんは、光に自由に絵を描いてほしいと感じているはず。大事なのは、はるちゃんが喜ぶものを描けるかどうかではない。光の心」
「心……?」
「そう。光の心を、キャンバスに映し出すこと」
祖母は光にパラオを好きになってほしくて、その気持ちを込めた絵を描いてほしいということだろうか。
でも……本当にできるの? 私に、そんなことが。
たとえば、パラオの鮮やかな海を、上手に、きれいに描くことはできる。でも、絵のもっとも怖いところは、描いた人間の心を映し出すこと。情熱や愛のこもっていない絵は、すぐに見抜かれてしまう。どんなに上手く描いても何かが欠けているのだ。
光が抱いているパラオへの感情は、そのままキャンバスに表れる。はるは確実にそれを見抜くだろう。それが怖い。祖母に自分の本心を見抜かれるのが怖いというよりも、自分が怖い。自分の心の底にあるものを、キャンバスを通して見せつけられるのが怖い。