毎日連載する小説「青のかなた」 第40回
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女性は「あなたはボランティアとはいえ、働きに来たんでしょう。観光客みたいな態度でいられると困るんですよ」だとか「この施設のことだってよくわかっていないんだから、スタッフに確認を取ってから行動してください」という感じのことをずっと言っていて、そのたびに「すみません」と答える。そのやりとりが何度か続いたあと、もう言うことが尽きたのか、女性は足元にあるスケッチブックとペンケースを拾い上げた。
「これはこちらで預かります」
そう言い捨てて、光に背中を向けて歩き出す。
「あ、待って……!」
思わず声を上げた。あのスケッチブックにはさっき描いたばかりのルーの絵がある。光にとって大切なものだ。
けっこう大きな声を出したつもりだけれど、実際はそうでもなかったらしい。女性は光の声が聞こえないみたいにどんどん離れていく。
彼女のあとを追おうと立ち上がったとき、初めて、足からすっかり力が抜けていることに気づいた。体のバランスを崩しそうになり、とっさに左足に体重をかけてしまったのがまずかった。引きつるような痛みが走り、体がぐらりと大きく傾く。あっと思ったときには、水面がすぐ目の前にあった。
頭から水面に叩きつけられる。落ちた勢いで体が水の中に沈み、慌てたせいで水を飲み込んでしまった。塩気の濃い水が口だけでなく鼻からも入ってきて、思わず咳き込む。咳き込んだあとに入ってくるのも酸素ではなくて海水だった。あまりの苦しさに頭がパニックになる。とにかく苦しくて、何かに掴まりたくて必死でもがくけれど、何も手に触れない。
――助けて。助けて……お母さん。
そのとき、何か黒い影が視界の隅を素早く横切った。直後、ドン、と弾力のあるものが勢いよく背中にぶつかってくる。イルカだ。どの子かはわからないが、イルカが光に思い切りタックルしてきたのだ。あまりの衝撃と痛みにふっと気が遠くなり、もがくこともできなくなった。
小さな泡がぽこん、と口から出たのを最後に、もう何も吐き出せるものがなくなった。水面がどんどん上の方に遠ざかっていく。もう手を伸ばしても届かないだろう。
ああ、死ぬな。そう思った。まさかパラオに来て一週間も経たずに死ぬことになるとは思わなかった。祖母には申し訳ない気持ちだ。でも、目の前にどこまでも広がる真っ青な水を見ていると、こんなきれいな海で死ねるのなら悪くないとも思える。かわいいイルカにとどめを刺されたというのも、まあ悪くない。
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