見出し画像

毎日連載する小説「青のかなた」 第179回

(179)

「うん。ありがとう」
「だから、光が眠ってるあいだ本当に心配だったんだからね。こんなすごいもの描いちゃったら、もう満足してそのまま死んじゃうんじゃないかって」
「心配かけてごめん。この通り、生きてるよ」

 光も、あの絵を描いている最中、頭の片隅で「死ぬかもな」と思った。体の中のエネルギーみたいなものが、全部キャンバスの中に流れていくのを感じたのだ。その瞬間は、「それでもいいや」と思った。これを描き上げられたらもう死んでもいいや、と。でもこうして生きている。
 体はあちこち痛くて重くて、睫毛が目やにで固まっていて目が開きにくい。もう何日もお風呂に入っていないのできっと変な匂いもするだろう。でも、それが生きているという感じだった。

「ねえ、レイのことが好き?」

 風花はキャンバスから光の顔に視線を戻すと、そう問いかけてきた。

「そうだなあ。あき兄のときとは、ちょっと違うかも」
「どんなふうに?」
「私、母に拒絶されてからずっと、自分のことが好きになれなかったんだ。あき兄が好きだっていう自分の気持ちも、本当は気づいてたような気がする。でも『こんな私なんてきっと好きになってもらえない』って思って、手を伸ばすことを最初からあきらめてた。その癖、あき兄が彼女と一緒にいるところを見るといじけた気持ちになったの。めんどくさいでしょ」
「それは……うん」

 風花が素直に頷くので、光は笑ってしまった。

「でもね、どうしてか、レイに対してはそういう気持ちがないんだ。レイが笑ってくれるだけで、心がじわってあったかくなる。レイがレイとして、ただそこにいてくれるだけですごくしあわせなの」

 レイと抱きしめ合ったときの、あの完全に満たされたような感覚を思い出す。彼とはもう何日も会っていないけれど、たった今起こったできごとのように思い出せた。あの人が生きていて、私も彼と同じ世界に生きている。それだけで、もう他に何もいらないくらいにしあわせだった。

「私も、そうなれるかな」

 風花がぽつんと言った。

「いつか人を愛せるかな」

 目を伏せながら言う風花の表情は、怖がりな小さな子どもみたいだ。胸を突くような愛おしさがこみ上げてくる。光はそっと、風花の手を握った。

「なれるよ。風花がそうしたいと願ったことは、必ず叶うよ」

 自分でも驚くほど、やさしい声が出た。それは心からの言葉だった。ひきこもりの仕事人間だった光でもそうなれたのだ。この世界に、叶わない願いなんてひとつもなかった。

いいなと思ったら応援しよう!