
毎日連載する小説「青のかなた」 第82回
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涙に濡れたほっぺたが、風に吹かれて少し乾いたあと、また新しい涙で濡れる。その繰り返しに身を任せていると、ふとレイが言った。
「ねえ、光。さっき、『過去の自分に会ったら、おまえは愛されてないんだよって伝えたい』って言ってたよね」
「うん」光は頷いた。
「それ……もしかしたら、違うんじゃないかな。光が本当に会いたいのは、話したいのは、お母さんじゃない?」
「母に?」
「うん。もし、いまお母さんに会えたとしたら、何て伝えたい?」
「いま……? わかんないよ、そんなの」
「じゃあ、その修学旅行のときでもいいよ。そのときに戻れるとしたら、何て言いたい?」
レイにそう言われて、光は当時の状況を思い出してみた。修学旅行で泊まっていたホテルから、先生の目を盗んで抜け出して、ドキドキしながら名護の街を駆け抜けたあのとき。緊張と、そして期待とで胸がはち切れそうになりながら母の家のインターホンを押したあのとき。光の顔を見た瞬間、母から笑顔がスッと消えたあのとき――。
「……どうして、かな」
「どうして?」
「『どうして、私のこと追い返したの』って。……私、何も母と一緒に暮らしたいとか、そういう無理なお願いをしたいわけじゃなかった。ただ、」
言葉が喉でつかえそうになった。レイは黙って聞いてくれている。
「ただ、子どもの頃みたいに、ギュッてしてほしかった。それだけなの。それ以外はいらないの。なんにもいらないの」
一度口にすると、言葉が波のように押し寄せてきた。それに引っ張られるように、涙もどっと溢れてくる。
母に「もう二度と会わない」と言われたとき、あまりにも驚いてしまって、泣くことさえできなかった。今の光が、当時の光の代わりに泣いているような、ふしぎな感じだった。
「そっか」
レイはそう一言言って、背中をさすってくれた。すがすがしいくらい性的な気配のない手つきだった。まるでお酒を飲み過ぎてゲロを吐いている人の背中をさすっているみたいな感じだ。でも、それが妙に安心できた。
「大事なことに気づけて、よかったね」
レイの言葉に、光は頷いた。相変わらず人の顔は描けないだろうし、それによって仕事が減るかもしれないことだとか、今後の心配はある。それでも、何か滞っていたものを一気に押し流すことができたような、そんな感覚があった。先のことを悩むより、いま感じているこの感覚を味わっていたい。そんな風に思ったのも、はじめてのことかもしれない。
いや、子どもの頃だったら、先のことなんて考えずにそのときの感覚に身を委ねていられていたはずだ。いつの間にか、そういうゆとりを失ってしまっていた。