キミの掌に握られたもの《ちょうどいい幸せプロローグ》
【はじめに…】
『赤ちゃんは掌に自分の食い扶持を握って産まれてくる。だからいつもこぶしを握っているんだよ』
母親だか婆ちゃんだかがよく言っていた言葉
だとしたら…産まれて来る時にキミの掌には何が握られていたのだろう
【ある夏の日のこと】
北海道帯広の夏は十勝川のせさらぎが心地よく、それを眺めているだけで一日の仕事の疲れや嫌なことを忘れさせてくれる
花火大会ともなれば大勢の人がここに集まり、壮大な光と音の祭典に心を躍らせる
そんな祭りの準備で賑わっている十勝川を仕事場の窓から眺めている時だった
『”かお”が破水したから病院に連れて行くね』
お義母さんからの電話だった
上司にその旨を伝えると『病院に急ぎなさい』と早退するように言われた
オフィスのあちこちから『おめでとう』の声が聞こえて、その声にひとつひとつ頭を下げながら会社を出た
途中、自分の母親にも電話を入れて初孫の誕生が近い事を伝える
帯広までは3時間と離れた場所に住んでる母親は『今から行くからね』と言ってから電話を切った
【僕が産まれた日のこと】
小さい頃から『耳にタコが出来る』ほど聞かされた話がある
僕は産まれてくる時にお腹の中で暴れて頭にへその緒をぐるぐる巻にして産まれてきたらしい
そのせいで、母親からの胎内から出てきた時に産声と言うものを上げなかったそうだ
当時は産婆さんなる人がいて、僕を逆さにすると
『泣け!泣け!』とお尻をひっ叩いた
そんな荒療治のおかげで、人より数分遅れで僕は泣いたらしい
『あれば痛くって泣いたんだよな』
親戚の集まりで必ず語られる《酒の肴》話だ
【彼女は不意に…】
病室に入ると彼女は母親の手を握りしめていた
お義母さんはその手を自分の頬に当てながら
『大丈夫。頑張るんだよ』
そう言って震える彼女を励ましていた
その母親と子供の光景は、なんだか柔らかく優しい光に包まれていて
きっと何年かあとの《彼女と産まれてくる子供》の姿なんだなと思った
お義母さんは、どう声をかけて良いか判らずに立っている僕を微笑みながら見つめている
『まだ少し時間かかるから、何か食べてきたら』
『いや、僕よりお義母さんの方こそ…』
その言葉を首を横に振って遮りながら
『お義母さんはいいから、かお。あんたも何か買ってきて欲しいものがあったらパパに頼んで』
そう冗談混じりに、僕をパパと呼んで笑った
彼女もプリンだのゼリーだのと、いろいろ並び連ねて笑った
そんな他愛もないやり取りや、産後の話をしていたら夜も11時を回っていた
『かおもお腹空いたろ?本当にプリン買ってこようか?食べれる?』
僕が声をかけたその時…
彼女に繋がれていた機械が激しく鳴り出した
彼女は急に顔をしかめ、ようやく絞り出した声で『お母さん』と言った
【承諾書】
『かおり!かお?しっかり!どうしたの?』
お義母さんの声が大きくなる
どうやら、陣痛のそれとは違う痛みのようだ
僕も彼女に近づくとナースコールのボタンを何度も何度も押した
しばらくして…本当にしばらく経ってから担当の先生がやってきた
機械数値の確認と触診を何度か繰り返した時、一瞬彼女の痛みも収まったようだった
それに安堵したのか、先生も『もう少しですからね』と、何の説明もなく病室を出た
それから5分と経たないうちに、また彼女が苦しみ出し、また機械のアラームが鳴った
次に先生が現れた時、その手には《手術承諾書》が握られていた
『帝王切開?何かあったのですか?』
詳しい説明をしている時間はなさそうだった
僕は急かされるまま承諾書にサインするよりなかった
【緊急帝王切開】
その言葉をは知ってはいたが、僕はもちろん、三人の子供と二人の孫がいるお義母さんにも初めての経験らしい
慌ただしく手術室に運ばれていく彼女に
『大丈夫だよ。頑張って』
二人で交互に話しかける
彼女はゆっくりと頷いて小さく…本当に小さく笑った
病室に入って暫く経っても、その『声』は聞けなかった
その代わりに、産院の前で鳴りわたる救急車のサイレン
救急隊員が手術室の前に待機した時、手術室のドアが開き保温シートに包まれた小さな命を手渡した
《何が起きてる?》
その命はここから他所に運ばれて行くようだ
『お願い、ついて行って』
お義母さんに言われるままに、一緒に救急車に乗る
着いた先は帯広で一番大きい総合病院
何が起きているのか、何の説明もないまま一人ICUの前で窓から、処置を受けているその命をただ見つめる
時計の針は夜中一時をとうに回っている
『お父さんですか?』
不意に声をかけられた僕はコクリと頷くと、そのままICUの中に通された
そこで初めて、小さな命を…子供の顔を見ることになる
呼吸器を鼻に当てられ、痛々しく身体中に繋がれた幾つも幾つも幾つも幾つもの配線、消え入りそうに小さく揺れる心音の波
そして顔を覗きこむ…
その顔は生きているのか死んでいるのか…その判断すらできないほどに真っ黒だった
僕は足元から崩れ落ちそうになるのを必死に耐えた
【彼女の前では泣けない】
『お掛けください』その言葉に促されて小児科の担当医の前に腰掛ける
目の前にはCTスキャンで撮影された何枚もの脳の断面図が並べられている
その一枚一枚を先生は指差し、最後にこう付け加えた
この子はこの先『自分の力では何も出来ない』と
天国から地獄?
そんな気分にすらなれなかった
その時僕は感情というものを無くしてしまったらしく
ただただ目の前の現実を冷静に受け止めているだけ
子供は専用の保育機の中で動かない、それは素人目でも解る
この子は生かされている
このまま側についていることも許されないらしく、仕方なく産院へ戻る
彼女や義母、そしてもう病院にいるであろう母や兄になんて説明すればよいのだろう…
頭はそのことだけで埋め尽くされている
産院に戻り、待っていた義母たちをロビーに呼んでことの全てを説明する
『ここの病院では何て説明されましたか?』
僕の問に『明日説明する』それだけにだったそうだ
僕は救急病院で説明受けたことを淡々と話す
もう感情と言うものを忘れたかのように
子供はお腹の中で《へその緒が折れた状態》で苦しんで暴れたらしく、彼女が苦しんだのもそのせいだ
つまり…羊水の中でへその緒が折れると今までそこから供給されていた酸素が行かなくなり、子供は口で呼吸をする
水の中で呼吸をするということは肺の中に大量の水を吸い込むということ
酸素の提供は止まり…子供の脳を一瞬で破壊した
それは『脳の死滅』である
この先、ミルクを飲むことも食べることも話すことも歩くことも指一本動かすことも
その全てが出来ない
それを話し終えてから僕は一つのお願いをした
『この事はまだ彼女には話さないで欲しい』
彼女はお腹を切ったあとでまだ朦朧としている、そんな彼女にこの現実は話せない
だから彼女のせいではなく、他の疾患が見つかり救急搬送されたのだの…そう話を合わせて貰った
だから決めた
彼女の前では泣かない
【退院の時】
翌朝から僕は会社に大凡の説明だけしてを休みを貰うことにした
朝は子供の病院に行って、午後から彼女を見舞い、産院ともずっと話をした
毎日のように彼女に嘘をつく
『笑ったよ』とか『元気にしてたよ』と
恨めしそうに『ずるい』と笑う彼女の笑顔が辛くて切なくて苦しくて…
一週間ほど経って彼女の退院が決まった
このまま子供の病院に行くことになるので、ついに彼女に真実を話す時が来た
子供が産まれた時のこと
子供が保育器の中でただ眠っていること
そして…何より君の身体を気遣って嘘をついていたことを
やはり母親だからなのか『なんとなく判っていたよ』とだけ言って無理に微笑んでくれた
【子供の名前は誓(ちかい)】
救急病院に着いて子供の元に案内する
彼女は保育器の中の子供に愛情たっぷりの笑顔で語りかける
『頑張ったね。偉かったね』
その姿はあの日産院で見た《母親と子供》の姿そのものだった
ほんの一瞬柔らかく優しい光が二人を包み込んだ
かおりの言葉に子供は目を開いて笑った顔をしたんだ
それは偶然だったのかもしれない
そう見えただけなのかもしれない
今までずっと言われて来たから
子供はこの先、話すことも声を出して笑うこはない…と
そこで僕らは初めて子供の名前を呼ぶ
ずっと二人で考えてきたこの子の名前
『誓(ちかい)』
この子をずっと守っていくと二人で誓ったから
それから10ヶ月…
誓は小さな身体で、関節が硬直しない為のリハビリにも、毎月の札幌の小児専門病院への通いにも耐えた
かおりもお義母さんの『あんたが泣いてどうするの!しっかりしなさい』そんな叱咤激励に応えてみせた
だから僕らは毎日笑って過ごす事に決めた
幸せの敷居を低くすれば、他の家族を羨む事も自分達を不幸と思うことも無い
誓の掌に握られたのはそんな言葉だったのかも知れない
三人でたくさん話して笑う…それが幸せな日々
そんな小さな幸せも…遂に終わりを迎える
《誓》は泣くことも笑顔を見せることもなく僕たちのもとから旅だっていった
誓の脳が呼吸をすることを指示しなくなった
理由はそれだけ…
誰かが言った
『親より先に死ぬのは親不孝』
そんなことあるもんか
生まれてから一度も誰かを傷つけるとこをしなかった自慢の子供
だから僕も誰かを傷つけることはしない
そう思って生きているよ
なかなか上手くは生きてないけどね
僕達はお葬式の前にお坊さんにお願いをした
『不謹慎になるかもしれませんが戒名に《笑》の文字を入れてもらえせんか?』
と、一度だけ誓が笑った時の話をした
その翌年…
彼女も最後に僕に笑顔を見せてから誓のところへ旅立った
もうすぐ6月…また三人で話せる日がくる
今年はお墓参りに帰れないけど…
約束したからね
僕もその日は笑って過ごすよ
終わり