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君が知っている僕と、僕だけが知らない君 ③

あの日公園にて

『わかった?お母さん出かけるからね』

朝から何回聴いただろう?
多分、4回目辺りからは返事はしていない
目覚めにあれだけの決意をしていたのにまだ布団の中から出られずにいる
気温のせいもあるだろうが、15歳の少年にとって身体の疲労より頭の疲労はことの外体力を奪うらしい
そのおかげで朝から7回も8回も階段を駆け上がってくる母親とのこの不毛なやり取りを繰り返している訳だ
(40過ぎて無駄に体力あるよなこの人)

『だから出かけるからね。いい?』

『わかったわかったカレーだろ。食うからあとで』

いまさら言われなくてもカレーの存在ならば昨夜から確認は出来てる。いったい何の心配なのか
このカレーと言う言葉に満足したのか、母親はやっと他のワードを口にした

『さて、支度支度。ほんとに世話のかかる』

(何がだよ)

母親の次の来訪を止めるためにも布団から出て洗面台に向かう。歯を磨きながら上川由美に会う算段を建てるのだが途中何度も『カレー食べるの?温める?』の声に思考が寸断される
それを化粧やら何かしらの準備をしながら言ってくるのだから、母親という人種の脳内は相当優秀なコンピューターが搭載されているに違いない
ただ、鏡台の前で歌う百恵ちゃんの【禁じられた遊び】の『♫怖くないあはんはん怖くない』の部分だけ何度も繰り返していて次に進めない…ネジの数本は外れているコンピューターのようだ
ノリノリのところをタイヘン申し訳ないが、聞かされてるこっちは十分怖い
お出掛け前に禁じられた遊びを選曲するあたりこの母親もかなりの【恋愛脳】の持ち主だ

『カレーのお鍋にご飯入れる?ドライカレーにする?』

それはドライカレーでは無いのだけれど、この言葉も何かしらの返事をしなければこのやり取りも果てしなく続くに違いない

『カレーは昼に食うから今いいや』

『ふーん。あっそう、何さ美味しいのに…』

なんで不機嫌になるかは判らないが、また鏡台の前の『怖くないモード』に戻って行った

二階の部屋に戻り再び【上川由美】に会う方法を考える。彼女の母親の実家なんて知らないし、それより知っていたところで何と言って訪ねるのか

『やっぱりゆかりに頼むか…あー!でも昨日なぁ』

このまま部屋で頭を抱えているだではまた布団に戻ってしまい朝の決意が揺らいでしまう…まったく昨日から今朝の目覚めまでのあの緊迫感は何処に行ったのか。いっそ難しく考えず僕一人の勘違いでも悪夢でも錯覚ということで自分を納得させる…何か起きたらその時はその時で

『…なのよ…ちゃんからもキツく言ってくれない?おばさんももう出掛けるのよ』

そんな自分の適当さ加減に自己嫌悪に落ちそうな時だった。階下がまた一段と騒がしくなった

『トール!起きてる?…ちゃん来たわよ。起きてきなさい』

起きてるのはさっき確認しただろうに、そして誰にでも出掛ける宣言するんだなこの人は

『あー?誰だって?』

母親がまた階段を上がって来る前に返事をする

『由美ちゃん。由美ちゃんがね…』

(そうきたか)
なんとなく予想が出来ていた『悪夢を見た』なんかで済ませるつもりはなく、悪夢はここからが本番らしい。かえって自分から思考を巡らすこともなくなり脳への負担は減ったので助かる

『上川?わかった今行く』

謝るにしても、ケンカ別れになるにしても覚悟は決めなければ…でも何でわざわざ向こうから
それにしても、まだ出掛けるつもりのない母親の前で女の子を泣かすわけにもいかない…こっちが外に出るか

『ばぁー!起きた?起きてる?おばさんがカレー食べなさいだって』

こちらのシリアスな悩みも、お前の方から訪問して来たことの畏怖もぶち壊してくれる登場のしかただった

『ゆっちー!お前ノックとか知ってるのか?』

(また僕の無意識とやらがやらかしてくれた)

この『ゆっちー』に満足してくれたのだろう
上川由美はまるで小学生のような満面の笑みで開かれ済のドアを『コンコン』と叩くと

『♫とおちほおー』とおどけてみせた
(正確には※とうちほうだけどな)

由美はそのまま部屋に入り込んで色々と探索し始めた。本当に小学生かそれ以下の子供が廃工場や秘密基地でも探索しているように

『あんまりジロジロ見るな。ウロチョロするな。勝手に触ん…』

由美は開けっ放しになっている押し入れから出されたダンボールの中を凝視している
それは僕が由美の足跡を探すのに取り出した小学校の頃の文集やノートの類の入っている箱

『あのさ…上川。俺…』

『私に聞きたいことがあるんでしょ?』

『下で待ってるね』と由美は部屋を出ていった

急いで上着を羽織った時に、ふと彼女が手にしようとしていたダンボールの仲の小さなハーモニカが目に入った
(何だっけこれ)
少しでも気になるものは持っていくか。そのハーモニカをポケットにしまい彼女の後を追った

『出掛けるの?あんた上着は?外寒いよ今日。マフラーは?手袋?』

母親は僕の格好を見て、見たまんまの姿に疑問符をつけてきた
出掛ける予定はこの人のはずだったのだが…

『ももひきも履きなさい』

見えない部分だけは本当に見えないらしくて安心したが、同年代の女の子の前で思春期の男の子にする質問ではない。案の定、母親の後ろで『♫ももひきーももひきー』と僕に指差しながら小躍りしている小学生がいる

『カレー食べないの』という残響を背中で聴きながら由美と二人で家を出た
無言のまま歩いていく…行き先は5分ほど歩いた先にある高台にある町立病院に併設された海の見渡せる小さな公園

『ここは変わらないね。トールもおばさんも紗綾ちゃんも文明も竹沢くんもマキもあの頃とぜんっぜん変わってない…』

そう話しながら海を見ていた由美が振り向いた

『もちろん、ゆっちーも変わってなかった』

その言葉を聴いた瞬間、身体の震えが止まらなくなった。それは失われていた記憶が大波となって一気に押し寄せたかのように

『ハーモニカ…吹いて。持ってきてくれたんでしょ?』

(そっか…この公園だったよな)

僕はポケットからハーモニカを取り出して口に当てた
そして僕たちの思い出の曲、ニール・セダカの『雨に微笑みを』を吹き始めた…流れる涙も胸の痛み…そのすべてを今はこの曲に込めて


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