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君が知っている僕と、僕だけが知らない君 ②
この涙が意味するものは
夢を見ていたわけではない…これは解る
レム睡眠だかノンレム睡眠の時に人の記憶は頭の中で整理されながら形となって夢というものを見るのらしい
記憶の整理とか言っておきながら目覚め際には夢の内容を覚えている方が珍しいのだから頭の中の引き出しとやらに随分と頑丈な鍵を掛けたものだ
朝になって夢の内容は覚えてないが夢そのものを見たかどうかくらいは解ると思っていたけど…
そんな日曜日の朝は目覚めの際の意味不明の涙と微かな胸の痛みで始まることになるわけだが、そもそも昨日の一件であれだけ頭の中の引き出しをひっちゃかめっちゃかにしていたのだから一日二日の夢くらいで整理できるとも思えない
土曜日の4時間目、不覚にも上川由美と目を合わせてしまい一方的であれ彼女と会話をしてしまった僕の午後の過ごし方は安堵とは程遠いものだった
とりあえず由美との二次接触は避けたい一心から取った行動は、秋に引退しているバスケットボール部の練習にお邪魔することだった
現役中にあれだけ威張りくさった態度をしていた先輩を受け容れざるを得ない後輩たちも迷惑な話だろう
数ヶ月もバスケットボールから離れていた嫌な先輩と現役で中体連上位を目指している後輩との実力の差は、彼らから名前に『さん』や『先輩』をつける以外は敬語という概念を取り払うまでに至ってしまったようだ
ただ自分自身を弁護させてもらえるならば、実力の差ではなく無意識に頭の中で上川由美のことばかり考えていたからだと思う
こう言ってしまうと急に異性を意識しているみたいで遠野ゆかり並の『恋愛脳』と変わらない
『トール先輩。お疲れ(さま)!』
『トールさん。高校でもバスケットするんスよね?まあ頑張って(ください)!』
という愛の抜けた挨拶を受けることになった精神的ダメージと引き換えに、当初からの目的の上川由美との二次接触は避けることが出来たわけだが
(それでもまだ出来ることはある)
上川由美の存在は卒業アルバムの低学年時の集合写真や学年末の学級文集に答えはあるはずだ
家に戻るなり自室の押し入れの捜索にかかる
そもそも僕が彼女を覚えていないことで相手は傷つき僕を嫌いになるだろう
けれど記憶にすら残っていない幼馴染みとの関係性が今更壊れたところでそんなに自分自身はその関係性について思い悩むことはないのではないのか
(違う。自分だけが知らないことへの恐怖心からだ)
『ホント恋愛脳かよ』
そう独りごちた後に気付いてしまった
(幼馴染み?)
確かに今さっき頭の中で浮かんだ言葉だ。聞き流せたはずの言葉の存在が引っ掛かっている
まるで意識して思い出そうとすると無意識に記憶から排除している誰かがいて、反対に無意識に思い浮かぶ記憶の欠片の存在を意識している僕がいる
『見つけなければ』と思う自分と、思い出す必要性を否定して探す手を止める自分が同時進行しているのだ
『ご飯食べなさい』
母親のひとことが混沌としている時を止めてくれたようだ
『あんた、お昼も食べないで何してたの?』
『ああ、後輩が練習に付き合ってくれって言うから』
『受験だって言うのに、全く何してるんだか』
この時期のもっともらしい母子の会話にさっきまで思い悩んでいた問題から解放されたはずだった
『受験といえば、上川さんとこの由美ちゃんはどうするの?こっちの高校行くのかい?』
この母親からの予想もしなかったアプローチは心臓をハンマーで叩かれたくらいの衝撃を受けた
どうやら本当に頭でもイカれたらしい。そうなると受験どころではないのだが
『わからんよ。今日だって上川とは一言も口聞いてないし、ブラバンだったらこっちの潮風より隣の西高の方が…』
(ブラバンって何だよ!アイツ吹奏楽やってたのか)
『あんたも今から西高に入れるくらい勉強したら?文明くんもゆかりちゃんも西高だって遠野さんから聞いたわよ…昔はトール君の方が出来たのにって。お母さん恥ずかしくて顔から火が出たわよ』
そう言い残しながら母親は台所へと消えて行った
(まただ…)
おかげでほんの少しだけ冷静になれた。若年性アルツハイマー病で記憶障害になっているのか、だとしたら何故上川由美の記憶に限定されているのか
それとも…何かを忘れているではなく何かが起きているかのどちらかだ
もう無理に記憶を思い出すという作業は止めた方が良いのかも知れない。眠れなくて夜通しモヤモヤするのも精神衛生上よろしくない…
そんな心配は必要なくこの日は頭と身体の疲労が一気に襲ってきて夕食後直ぐに眠ってしまったらしい
翌朝僕は泣いていた。意味のわからない涙にただ胸が痛くて…
意味はわからなくても理由は見当がつく
(上川由美。お前なんだろ)
多分、今日彼女を傷つけてしまうだろう…それでも会って確かめたい。この涙の意味するものを
君が何を知ってて僕は何を知らないのかを…