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「本当の海底橋をさがせ」⑤~海底橋の痕跡~


「海底橋」とよばれていたこの橋。

本当の名前は「赤橋」(地元っぽく言えば「あかっばし」)

何も主張することなくこの場所にいます。

そして「本当の海底橋」



写真の中では誇らしげにいます。

海底地区と戸倉地区を結び、中津川両岸の交わりは「海底橋」なくてはならなかった。

その「海底橋」

昭和8年(1933年)に完成し、昭和33年(1958年)に改修。

1980年代頃に大雨によって右岸側の橋脚が流れに洗われて、主塔が傾きました。
昭和56年(1981年)に角田大橋完成後、海底橋撤去。

「海底橋」は跡形もなく消えてしまします

人々の思い出の中、以外からは。


海底橋の痕跡

「赤橋」(この連続稿の中では最初の頃は「海底橋(仮)」)を調べる中で、愛川町の人何人かに、「海底橋」を聴いて回りました。

場所は「赤橋」と混乱している人もいましたが、「海底橋」の勇姿を覚えている人は多かったです。

「あの吊り橋」。

「海底橋」を表現する言葉のほとんどがこれです。

「海底橋」が姿を消してからは、学校の授業で「昔の愛川町を探そう」という授業の中で「海底橋」の痕跡を見つけに行った人もいます。「しかし、なにもなくて」というのが授業の答え。

「あの吊り橋」。の後に続くのは、「もう影も形もなくなったな」



海底橋の主塔を傾けた中津川の激流。これに対抗するため、より頑丈な角田大橋が完成しました。
同時に角田大橋周辺は護岸工事がスタートします。
この護岸工事が「海底橋」の痕跡を消し去ることとなります。


ほんとうに

「海底橋」の痕跡はないのでしょうか?

「本体」はないとしても、そのほんの一部に触れることができれば、僕の旅も終わります。


僕は一枚の「海底橋」の写真をもって海底地区へ行きました。



「故影拾遺Ⅱ」5ページにある昭和40年代の海底橋です。改修後ですね。僕がもつ唯一の「カラーの海底橋」です

この写真をにらみつけたり、かすめたり、振ってみたりして海底橋があった場所をぐるぐる回りました。



ん?これは・・・



これでしょうか?

「これ」がもし写真の「あれ」と一緒ならば



今、立っている場所は当時の海底橋がある写真とあわせると「この辺」です。



僕の地図上の推測が正しければ、海底橋の下には沢が流れていたということになります。



今の地図に合わせるとこの位置になります。赤い線が海底橋の場所。


・・・たぶんです

この発見後、再び聞き込みをして、この杭が写真と同じものであることを証言する人がいました。

橋の本体の痕跡は、見つかりませんでした。

でも、



30年以上前にこの杭の向こうには戸倉の青空まで伸びる吊り橋があった。

振り返れば

海底の集落。

集落から中津川へと抜ける風を感じられただけでも十分な収穫です。

海底橋

確かにここにありました。



「赤橋」と「海底橋」

この二つの橋の「勘違い」から始まった今回の旅。

僕は一定のゴールへと導かれました。

今回の旅。

そこで感じたのは

「人間のあいまいさ」でした


<つづく>

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