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71年目。(愛川町日記 2016年8月15日より転載)

8月15日。

71回目の<終戦の日>。

「終戦ではない。負けたんだ。8月15日は敗戦の日だ。」

1945年8月18日まで南洋の島で戦い続けた取材をしたある人の言葉を思い出しました。


愛川町の戦争の記憶。



今年、取材した場所です。

1945年7月10日。

山側から現れたアメリカ軍機P-51マスタングが平山橋を機銃掃射。その後厚木上空へ消える。

アメリカ軍の空爆順位で上位にあった八王子方面での作戦行動中だったと思われるこのP-51。

偶然橋の上にで牛に乗った荷物が落ちかけていて、それを落ちないように固定をしていた人が機銃掃射により死亡。

橋のたもとでは熊坂医院の看護婦さんが同じように機銃掃射により亡くなっています。

当時幼かった熊坂医院の医院長の頭上を弾丸が通過。



今も残る71年前の弾痕。

今もなお戦争の悲惨さを留めています。



<戦争遺産>の保存・保護は各地で問題になっています。

71年という年月は戦争遺産に老朽化を進めました。

その中で戦争遺産は2つに分かれました。

人が近づくことのできないように強固な管理態勢に置き、老朽化の生む危険を排除する

もう一つは

この平山橋の様に<街の生活の中にある戦争遺産>



平山橋に刻まれた71年の年月はもっと前面に出していいと思います。


平山橋は有形文化財に指定されています。

71年前の弾痕以外でも愛川町の誇る歴史遺物の一つです。

歴史とは、点ではなく。

線であり、

面です。


平山橋から半僧坊、半原地域へ。
田代から三増地域へ。

愛川町の歴史を伝えるフィールドとして地域を捉えていくことにより
この平山橋の存在は大きくなると思います。

順路などの看板設置、巡回バス、休憩所の設置。
このフィールドに人を呼び込む方法はたくさんあります。

呼び込むのです。
待っていたも誰も来ませんし、活用することにより財産となります。
歴史ブームの今。ブームは過ぎ去れば再来は難しく。
今のままでは愛川町民にすら忘れ去られるような。

そのためにも、田代、三増、半原地域の歴史を洗い出すこと。

ここまで書いてちょっと筆をおく。

最近、半原といえば<「半原水源地」の活用>ですが、<半原小学校の保存>に関してはどうなったのでしょうか?
水源地活用の影で、町にとってマイナスな処理が行われなければいいですが。

これはまた別の話で。

平山橋に刻まれた「71年」

それが永く愛川町の歴史に残り

そこから平和を想う心が生まれることを願います。

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