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山十邸にて。(愛川町日記 2015年2月16日から転載)

「歴史」とは、「過去の遺物」である。

そうであろう。

「現代でも最先端の歴史物」

というのはなかなかお目にかかれない。


「人間の進歩」は約2000年前に終わり
それ以降は「文化の進歩」である。

「不便」を少しでも「便利」に
「夢」を少しでも「現実」に

1つでも先の可能性を叶えるために人間が歩いてきたものが、そこに欲望を加えれば直一層、「歴史」となるであろう。

人が絶え間なく歩けば、その背後の過去は「歴史」なのである。


話が飛躍してきた。


つまり「現代社会」に反するものとして「歴史」あると言うことをいいたい。

「現代社会」を運営する中で破壊され忘れ去られた「歴史」が日本中にあるのだ。


愛川町中津に「古民家山十邸」というものがある。





愛川町の中でも時間が切り取られたように存在するこの古民家は、愛川町の人々でも訪れた経験が少ないだろう。

「山十」とは屋号である。

この地域の豪農である熊坂家から明治初期に誕生した熊坂半兵衛が元々の住人だといわれている。

山十邸周辺には「熊坂」という地名や坂の名前も残り地元への深さが感じられる。

屋敷の造りも、詳しく見ていくと枚挙にいとまがないが、愛川町の宮大工の造りが随所に見られる。

宮大工の技法もまさに「歴史」であろう。
現代の人々で宮大工の技法で家を建てようとする人など余程の数奇者の類いである。

確かに宮大工の技法は素晴らしい。
しかし、現代人の生活には必ずしも当てはまらず、あくまでも愛川町のきらびやかな歴史の中に存在するものである。


(山十邸では現在吊るし雛が行われている)


話の軸を中津から移動させる。

同じように半原小学校内の旧郷土資料館も宮大工の技法である。

そして、全国的に有名になった愛川町の歴史論法の現場でもある。

小学校という「現代社会」の中に放置された「歴史物」。

「老朽化」や「敷地確保」、「地域の歴史」と「学習材料」。

「残す」か「残さない」か。

私としては残してほしいが現実は難しく、一部移築の上に残すのが最善であろう。


話を再び中津の山十邸に戻し、歴史の話を何となく書き連ねる。

熊坂半兵衛のあとの住人の話だ。

山十邸は現在では愛川町の所有物だか、

愛川町にとってはあまり触れない住人がいた。


大川周明、である。

思想家として知られる彼は昭和19年に熊坂家から山十邸を譲り受け、昭和32年に息をひきとるまでこの地にあった。


戦後の東京裁判において唯一の民間人A級戦犯で起訴された事を見ても彼の歴史的立ち位置がうかがえる。

東京裁判で彼は「精神異常」で不起訴になる。
裁判中に、前に座っていた東條英機の頭を何度も叩く映像は有名である。(演技かも知れないが)

大川は山十邸から東京裁判にむかった。

東京裁判後は、コーランの研究や農村の復興に尽力した。

A級戦犯の住居。

これが山十邸のもうひとつの歴史であり、どちらかというと押し入れのすみにそっとおいておきたい歴史である。


山十邸を見れば愛川町の歴史がおぼろげながら見えてくる。



山十邸の前の道は、中津往還である。

つまり、かつての、熊坂半兵衛の頃の愛川町はこの山十邸前の道がメインストリートであった。

歴史的に見ても、川の側から人々の定住があり、
地図的に見ても、山十邸から熊坂を下れば中津川を挟んで八菅山である。

熊坂の「熊」が八菅山内の熊野神社である事を思えば、今の山十邸周辺が集落の中心であったこともうなずける。


大川がいた頃は、山十邸の背後には陸軍の相模飛行場が広がり、中津往還はバスが行き来をし、未だに愛川町(当時は中津村)の中心であった。

中津往還沿いの人々はバスに乗る際に、乗る方向を示す旗を軒先に出したそうだ。


しかし、やがて相模飛行場が内陸工業団地に変わり、愛川町にも交通戦争ともいえる車社会が蔓延ると

中津往還は車がすれ違えない道となり、それと共に山十邸は「現代社会」から「歴史」へと時間軸を固定されていくこととなる。




現在の中津往還


山十邸は愛川町の歴史の流れを感じさせずにはいれない。

そして、それは愛川町の人々の共通の感覚になることが望ましいことだ。

それを後世に植え付けて事が地域教育であり、地域の歴史を伝える意義である。



大川周明の『日本二千六百年史』の冒頭にこんな言葉がある。

 「吾等は永遠より永遠に亙る日本的生命の一断面である」

今を生きる我々もいつかは歴史の一端になるのだ。

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