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フィレンツェに留学して1年と数か月が経っていた。持ってきたお金も底をつき始める。まだイタリアに居たい。日本に帰るという考えが頭になかった。2000年の秋の始まり、漠然と仕事を探さないと暮らしていけないなと思っていたが、具体的な方法は分からなかった。

ある日の朝、友人のシルビアがミラノへ行くと言う。この頃私は彼女の家のひと部屋を間借りしていたので、朝から彼女がクローゼットをひっくり返して旅支度をしているので、どこへ行くのか聞いたのだ。

「ミラノに住む兄の誕生パーティに行くのよ。あなたも来る?」Vado a Milano per la festa del compleanno di mio fratello! Vieni anche tu?

「行く!」Si!

パーティは夜だからその日はミラノに泊まることになる。1泊分の用意をしてその数時間後には私達は北に向かう列車に乗り込んでいた。当時まだユーロスターなんて物はなくて、節約して買った切符の列車はガタガタと何駅にも停車する急行だった。

イタリアに来てからは、こんな風にいきなり決まる物事に慣れて、私はいつでも身軽だった。この国では、特に若者の間では、何日も前からなにかを計画することはほぼ皆無で、計画があったとしても変更されることはしょっちゅうだから、ぎりぎりまで信じる事は出来ない。逆にぎりぎりに決まった事はすぐに実行された。

フィレンツェから到着したミラノ、とても大きく都会に見えた事を覚えている。彼女のお兄さんのお家は、Sant'Ambrogioサンタンブロージョという地域にあった。小さなアパートメントで、彼はベネズエラ人の女の子と共同生活をしていた。

アパートメントは玉砂利が敷き詰められた細い道のトンネルを抜けた先の小さな扉の中にあった。扉を開けるとそこは小さな中庭になっていて、その庭をぐるっと囲むようにアパートメントが立ち並んでいる。ミラノにはこのような形態のアパートメントが多い事を後から知った。

夕方に到着した私達は彼の家で開催された誕生日パーティで、はじめてあった人達と大いに食べ、飲み、話し、その夜は更けていった。彼のミラノの友人たちは夜が更け切った頃にみな帰っていき、残った私とシルビアは、即席で用意してもらったベットで並んで寝た。

朝が来ると、シルビアはすぐにフィレンツェへ帰ると言う。せっかくここまで来たのだから、一緒に観光でも出来ると思っていたのに、、。少し残念に思ったけれど、気を取り直して、1人で少しゆっくりして帰ると伝える。ここでやっと本題へ。

ミラノの街を少しうろうろして、カフェでコーヒーを飲みながら、ふと思う。ミラノはフィレンツェよりも都会だから、職も沢山あるんじゃない?ガイドブックをパラパラとめくってみる。あ、日系の航空会社の支店がある。ここから近いのかな。

あの時どんな気持ちでいたのかよく思い出せないのだけど、次の瞬間には地下鉄に乗ってDuomoの近くにある支店に来ていた。なかなか見つからずウロウロして、途中で道を尋ねたお兄さんのバイクに乗せてもらって(無謀な行動だなあ)その建物にたどり着く。

どんな度胸があったのか、階段を上り、オフィスの透明な扉のブザーを押す。いきなり訪問して、

「あのー、仕事探しているんです。」Sto cercando il lavoro.

とカウンターで言ってみる。その場にいた日本人もイタリア人も目が点になっていた。そして丁寧に断られたのだけど、近くに系列の旅行代理店があるから、そこならもしかしたら募集しているかもしれないと教えてもらう。

その足で教えてもらった日系の旅行代理店に向かう。映画に出てくるような重厚なビルの大理石の螺旋階段を上がった先のオフィス。メガネのイタリア人に迎えられ、また同じことを言う。また断られるかなと思っていたら、

「先週日本人スタッフが2人退職したから、もしかしたら可能性あるかもしれないよ。履歴書置いていってくれたら支店長に渡しとくよ」La scorsa settimana i due staff giapponesi se ne sono andate quindi secondo me potresti avere la possibilità e intanto lascia pure il tuo curriculum cosi consegno al direttore che non c'è oggi.

あ、履歴書。この時の私は本当に何を考えていたのだろうと思うのだけれど、そう言われてはじめて、履歴書さえも持ってきていない事に気づいた。だってその日はシルビアと観光をして遊んで帰るつもりだったのだから。

「メールで送ってもいいですか」Lo posso mandare via mail?

電車に乗って1人でフィレンツェに帰る。今日の出来事を振り返る。仕事が見つかったら嬉しい、嬉しいけどそれはミラノに引っ越すという事だ。知り合いもいない土地でどうやったらいいんだろう。あ、1人フィレンツェの語学学校で知り合った男性がミラノに住んでいたっけ。

その旅行社から連絡をもらう前から、もうそこで働く気になっていた。変な確信があった、私はミラノに引っ越すのだ。数日後に旅行社から連絡がある。面接に来れますか?はい。

次の週にまたミラノへ向かう、今度は1人で、日帰りで。

イタリア語と日本語の面接を受ける。いつから働けますか?あっさりと仕事は決まった。今思うとイタリア語はまだまだの段階だったと思う、それなのに意気揚々ともう話せますなんて言ってたな。欲しいものを手に入れるために大きな事言っちゃうイタリア人の影響をすでに受けていたのかもしれない。

後にも先にもあんなに度胸のあった時代はなかった。あそこで仕事が見つかったから、イタリアに観光ビザで行き来するのではなく合法的に長期滞在できることになった。リラの時代で、現地社員として雇われる私の給料はスズメの涙以下だったけれども、幸せだった。全てが挑戦で、全てが新しい出来事だった。海外に、外国人として、留学で滞在するのと働いて滞在するのは、全く違う。お金を稼いで住んでいく、現地でやっと足を付けられた気がした。

ここからミラノでの私の冒険がはじまった。2001年11月。家がないから、1ツ星の安ホテルから出勤していたのも今では良い思い出。働き始めて数日後、ミラノ大学の掲示板で見つけた初めての共同アパートは韓国人とのシェアハウスだった。

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