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川崎大師大開帳参拝 22 並ぶのは修行か?
並ぶのも修行
並ぶのも修行なんて言いながら、人々は赤札授与に長時間並ぶ。果たして、それは修行か?
ネットを見ていると、「赤札授与時間がわからないなんて不親切、川崎大師は参詣者に敬意を持って対応しろ」みたいな意見を見かけた。まぁ、そんな人でも、三時間近く列んで赤札を貰うのだから、その魅力はよほどのものだと思う。
このブログ的なものでは。そこまで長時間並ばなくても赤札を拝受できるように、十年後に参考になるように、赤札拝受方法を書いているが、ならぶ修行をなるべく避けるような方向となる。
赤札をもらえば「一切の障罪が消滅」するのだから、並んでも並ばなくてもたどり着くところは同じである。並ぶのも修行であるならば、長時間並ばないのは、短い修行で最高の功徳を得たいということになる。
しかし、ふと、同じ結果でも、人は、苦労が多ければ多いほど、有利になると思い込む傾向があるんじゃないかと思った。同じ回に並ぶとしても、早くから並んで、自分はこんなに並んだんだからその分功徳があると思いたいのではないか。例えば、6時からの護摩で、朝5時から2時間並んだ人でも、6時40分から20分並んだ人でも、もらう御札は同じなのに、早くから並んだ人は、時間分の功徳が多いと思いたいのではないかと思う。これは、僕が自転車でお遍路したときに、人に話すと、歩きの方が功徳があるというような言説を相手から聞いたことが複数回あることからも、伺える。
では、修行とはなんなのか??修行は辛ければ辛いほどいいのか??などの疑問が湧くが、お釈迦様は苦行を行った後に、スジャータから乳粥供養を受けて中庸を悟り、苦行は意味はないとしている。
並ぶことに関しては、家に帰りたくないとか、護摩修行の際に本堂内に入りたいとか色々理由はあるのだろう。各回先頭に陣取ってる人たちを見ると、お菓子やお弁当広げたりしてて楽しそうだもん。