この子の記憶に残らなくても
腕の中に赤ちゃんがいる。抱っこ紐の中ですやすやと眠るその子はじんわりとあたたかく、おでこからはふんわりと甘い香りがする。すうはあと聞こえる呼吸は体の大きさの割に力強く、生きているよ、ぼくはちゃんと生きているよとわたしに教えてくれる。
この世界に、いま、赤ちゃんをあやしている人がどれだけいるだろう。おむつかな? お腹がすいたのかな? 抱っこかな? 眠いのかな? あれこれ考えながら試行錯誤している人たちがどれだけいるだろう。わたしはいま、光が差し込むリビングの中で、視線を下に向けたらすぐそこにいる我が子の寝息を聞きながらこれを書いている。どこかぼんやりとした、現実味のない時間。働いているとき、遊んでいるときには感じたことのない不思議な気持ち。家の外と中では時間の流れが違うようで、まぁるく切り離された空間に赤ちゃんとふたりきり。
わたしの記憶にはこの時間が確かに刻まれていくのに、気持ちよさそうに眠る我が子は、すべてを忘れてしまうんだろう。わたしが赤ちゃんのころの記憶を持っていないように。えんえん泣いてほっぺに涙を流したことも、その涙をわたしの指先が拭ったことも、こうしていまわたしの腕の中で眠っていることも、記憶には残らずに「ひとりで大きくなりました」の顔で成長していくんだろう。
それもまた、親としてのご褒美でもあるんだろう。わたしのこの目で、耳で、肌で、全身で感じたものはすべてわたしのもの。からんからんと宝石のように心の中に降り積もって、そのカケラが、この先のわたしをきっと何度も助けてくれる。
小さいのに意外と力強いおてて。ハフハフと口を開けておっぱいを探す仕草。ゲップを出しているうちにコテンと首をもたげて眠る姿。ほーと口をすぼめる表情。おんぎゃあおんぎゃあと赤ちゃんらしい泣き声。えんえんひくひく泣いていたのに、抱っこしようとするとぴたりと真顔になる瞬間。どんどんすくすく大きくなる。
くりくりのおめめでこちらを見て、はじめてわたしに笑いかけてくれたこと。こんなにも愛らしい生き物が我が家にいることがうれしくて神秘的で、体中にしあわせが巡る感覚だった。小さなおくちからこぼれるあーうーの声。いつおかあさんと呼んでくれるかな、おとうさんのほうが先かな。はやくたくさんお出かけしたいね、いろんなところに行きたいね。未来を想像することが、こんなにも甘くとろける気持ちになるなんて知らなかった。
眠り続ける我が子のおでこにキスをする。だいすきだいすき、そう言葉にするだけで不思議と涙が出る。これからも、何度も書きたくなるだろう。赤ちゃんとの何気ない時間を、生活を。周りから見たら似たような行動、表情、仕草でも、はじめてできたね! の新鮮な気持ちでわたしは受け止めるんだろう。取りこぼさないように、どんどんあふれるこの気持ちをただ流していくのはもったいないと思うから。この先の未来で読み返せるように、こんな気持ちになったこともあったなと思い出せるように。
ふわふわと真っ直ぐ伸びていくやわらかい髪の毛を撫でる。いま、赤ちゃんをあやしている人たちと、少しでいいから話したいな。しんどいね、たいへんだね、自分の休息なんてわずかしかないでしょう。そんな中で、きっとあなただけの忘れたくない愛しい瞬間があるのではないかな。それはわたしにはきっとわからないし、共有もできない。自分の中だけにあるもので、取り出して人に見せることはできないんだよね。だから自分の記憶で、しっかりと掴んで、たまに取り出して懐かしく眺めるだけ。それでも、ただただかわいいよ、ただただ愛しいよと、誰かと会話をしてみたいな。
がんばろうね、なるべく無理しないように、無理しないといけない瞬間もあるけど、それでも自分の心を忘れずに。赤ちゃんと一緒に過ごす時間を大切に味わいながら、ときには窮屈さでため息を吐きながらも、我が子を育てていきましょう。