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note:『蒸し子』

もう何十年もサウナには行っていない。世に風呂好き温泉好きは数多おられるようだが、裸という無防備な姿で水中に没するということに抵抗があった。

幼い頃は風呂嫌いで親を手こずらせていた。水に浸かることへ嫌悪と恐怖があるので、当然、水遊びはしない。必然的に水泳はできなかった。小中学校時代は夏の体育はサボりまくった。高校は都内の中高併設校でプールの使用は中学側に優先権があったので、水泳の授業が3年間で一度か二度くらいしかなく、その点で安穏な青春時代であった。ところが大学が、50メートル泳ぐことができないと体育の単位が取得できない学校だった。通常の科目が4単位であるのに対し、体育は1単位だったが必修だったので、それがないと卒業できない。必然的に選択体育という夏季休暇中に実施される授業は水泳になった。

私の属する学部(学生数:一学年約1,200名)で、私同様に泳ぐことのできない学生は男子で約20名ほどだった、と記憶している。それを、全く泳ぐことのできない、と、水に浸かるくらいはできる、とに分けたところ、1:3くらいになり、私は後者の方になった。この組分けの後、それぞれの組で最初に軽く自己紹介をさせられた。これは泳ぎもできずに義務教育課程と高等学校課程をくぐり抜けてきた事情を指導する側が一応把握することを目的としたものだった。すると、私と竹内君以外は北海道出身者か附属高校出身者のいずれかであることが判明した。附属高校は当時3校あり、うち女子校が1校だったので男子の方は2校だ。このうち片方にはプールがなかった。正確にはプールはあるが、やはり中学優先という私が通った高校と同様の事情によるものだった。例年、選択体育の水泳の「泳げない者の部」に集められる学生は大概がその附属高校出身か東北・北海道出身だったようだ。指導教官は物珍しそうに私と竹内君とを眺めて、「珍しいねぇ」とおっしゃった。ちなみに、竹内君は灘高の出身だ。

水に浸かることさえできれば、泳ぐことはそれほど難しいことではないらしい。要は持って行き方の問題で、事実、泳げないが水に浸かることくらいはできる組は約1ヶ月ほどの授業が終わるときには、全員50メートルどころか軽く一往復(つまりターンもできて100メートル)泳いで1単位取得した。問題は全くできない方の組だ。同じプールの別の一画で授業が行われていたが、おそらく今ならああいう授業は出来ないのではないか。そちらの組の指導教官はデッキブラシを手に、溺れかけながらプールの端につかまろうとする学生をそのデッキブラシで押し戻すのである。「甘ったれんじゃねぇ」という怒鳴り声が聞こえてきた。確か、こちらの組は誰一人として泳げるようにはならなかった。人には得手不得手というものがあり、どうしたって出来ないことはあるのだ。

できるできないは本人の意志と能力だけでどうこうなることばかりではない。能力の差異を個性のうちとして受容する社会でなくては疎外される者のない安心安全が実現できないとは思うのだが、かといって社会規範も尊重されなければ社会は成り立たない。多様性の許容範囲をどう設けるかというのは至難の課題だ。水との付き合いということだけを取り上げても、ある程度の人数になれば「常識」とか「当然」といったその集団の枠から外れてしまう者が出てくる。そこに収まらない者を排除すれば集団の秩序は維持できるものなのだろうか。日常生活の中にある些細なできるできない問題と世界の耳目を集める難民問題とか差別被差別問題とは同じ根を有している、と私は思っている。

マクラが長くなったが、蒸し子さんのnoteは、サウナどころか風呂というものにすら関心のない私にも面白い。その面白さの程度を説明するのにこんなことになってしまった。

蒸し子さんのことは11月18日付の宮島さんのnoteに紹介されていた。リンクに飛んで読んだら面白かったので、最初から読み始めた。サウナには入ったことがないわけではない。小学生の高学年の頃、当時近所にいた叔父がよく西川口のサウナに連れていってくれた。しかし、そもそも疲労というものから無縁な時代のことだったので、「ととのう」というような体験があるはずもなく、叔父がどこかへ行ってしまった後は一緒に行く相手もなく、旅行などで宿泊した先にあって気が向けば入ってみるという程度のまま今に至っている。

蒸し子さんのnoteを読んで思うのは語りの軸の一貫性が読む側を惹きつけるということだ。その軸が自分の体験に根ざしているところが言葉に信頼性を与えている、と思う。サウナの話のようでいて、実はサウナを超えたところを語っている。だから、サウナに全く関心のない私が読んで面白いと思うのだ。具体的に何がどうと言うのではないが、「ととのう」体験は単に本人の快感のことに留まらず、物事の収まりというような普遍性に通じている気がするのである。自分の言葉を持っている人の書くことや言うことは読んだり聞いたりしていて気持ちがいい。台湾の話とかチョコミントアイスクリームの話とか、サウナから外れた話題もサウナ話の軸の上に置かれているから一層活き活きと見える、気がする。自分もそういう信頼される言葉を発することができる生き方をしないといけないとは思うのだが、もう手遅れだとも思う。

見出し写真は法華寺の境内にある浴室(からぶろ)。2018年10月8日撮影。現存する建物は江戸時代に再建されたものだが、法華寺は光明皇后ゆかりの門跡尼寺で建立当時、光明皇后自ら入浴者の垢を流したと言う伝説があるらしい。寺の境内にあるが、僧侶のための施設というよりも近隣の庶民の利用に供されていたという。このため重要有形民俗文化財の指定を受けている。風呂あるいは風呂に入るということは文化によってだいぶ位置付けが異なる気がする。日本で入浴が愛好されるのは何故だろう。

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熊本熊
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