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note:『出 雲太』

毎年、奈良に出かける、と何度も書いた。別に歴史に興味があるとか、特別な理由があるわけではない。ちょっとしたことをきっかけに、なんとなく出かけるようになった。ただ、毎年出かけていれば、自然に神話とか歴史にかかわることに触れ合うようになる。

ホモサピエンスが誕生したのは20万年ほど前のアフリカ大陸とされている。どのような事情があったのか知らないが、それが6万年ほど前に移動を開始して、アフリカ大陸から流れ出した。シナイ半島の付け根あたりから陸伝いにユーラシア大陸へ移動した者もいれば、舟のようなものを拵えて海に漕ぎ出した者もいたらしい。誕生してから10万年以上もアフリカ大陸で燻っていたのに、脱アフリカとなるとあっという間に地球全体に広がった。よほど移動が好きになって病み付きになってしまったのか、移動を迫られる事情が続いたのだろう。日本列島にホモサピエンスが到達したのが4万年ほど前のことらしい。日本に至るルートはざっくり3つ:1)大陸沿岸部から南の島々を伝って北上するもの、2)朝鮮半島経由、3)サハリンからの南下。当然、それぞれのルートの起点に至るまでに様々な経路があるはずだ。その経路がDNAの分析でわかるのだという。このことは以前に書いた。

そういうことではなしに、「日本」という文化圏のようなものの成り立ちということで言えば、平城京が造営されたというような、現代から遡ることのできる歴史と、人類とかホモサピエンスというような呼称で語る歴史との間に繋がりをつける(あるいは明確に分断する)神話の世界のあれこれが西日本にはたくさんある。出雲はその「あれこれ」の筆頭の一つと言っていいだろう。

出雲太さんは、その「あれこれ」を語るべく、noteを綴り始めたようだ。初期の青銅器についての記事は出雲太さんの熱量が溢れていて、書いている内容もさることながら、書いている出雲太さんの心の動きが伝わってくる。

しかし、青銅器の話はいつしか日々の暮らしのあれこれになる。書き続けることで生まれてくる心境の変化とか、取り上げる題材の変化、時々登場する身近な人たち、そんなあれこれが出雲太さんのnoteの世界を膨らませていくのである。ご自身で説明されているが、日常生活を神話世界の延長線上で捉えているとのことだ。

神話を拵えたのは神ではなく人間だ。神の世界のことを語っているつもりで、人間は自分のことを語っている。神話と日常生活がつながっていると考えるのは理にかなっている。

たぶん、我々の遠い先祖たちがアフリカを後にしたのは、差し迫った何かの所為ではなく、あれこれしているうちに、そういうことになっちゃったのだろう。出雲太さんのnoteが青銅器から別のことに変化したみたいに。なんて、思ってみたりする。

私は一度だけ出雲を訪れたことがある。社会人になって最初の夏のことだった。入社年次で自分の12年先輩社員の有村さんに金魚の糞のようにくっついていた。ある日、有村さんに「夏休みは決まってる?」と尋ねられた。「いえ、何も決めてません」と答えると「じゃ明日から来週いっぱいね」と言われた。根が素直なので「はい」と答え、その日帰宅してすぐに荷物をまとめて東京駅へ行った。1985年8月3日土曜日のことである。当時は土曜日は午前中だけの半日勤務だった。

なんとなく、西へ行こう、と思った。そして、なんとなく山陰へ出かけてみようと周遊券を買った。周遊区間までどう行くか。東京と大阪を結ぶ夜行急行「銀河」というのがあり、乗ってみたいと思っていたが、指定席は満席で、自由席の列に並ぶほどの気持ちは無かった。夜行バスも満席だったが、キャンセル待ちの9番で、たまたまこの日は9番まで乗車することができた。

バスが大阪に着くと、隣に停車中のバスが出発の準備中だった。行き先が「津山」とある。それがどこなのか知らなかったが、切符売り場に行くとそのバスに空席があるとのことだったので、それに乗ることにした。津山からは鉄道で新見、米子、松江を経て8月6日に出雲に着いた。

出雲と言えば、出雲大社。国鉄の出雲大社最寄駅は大社線の「大社駅」。わかり切った「出雲」を冠したりはしないのである。大社線は出雲市駅と大社駅、7.5kmを結ぶ出雲大社の参道の一部のような路線だ。電化されておらず、車両はキハ。大社駅の駅舎は「大社」という風情だった。

国鉄大社線 大社駅 1985年8月6日
国鉄出雲市駅 大社線ホーム 1985年8月6日

宿はユースホステルを利用した。今となっては記憶がほとんど残っていないのだが、当然、出雲大社にお参りしたはずだ。ところが、境内の写真が無い。まさか、写真撮影禁止ということはないだろうから、自主的に撮影を遠慮したのだろう。そうさせる雰囲気のようなものがあったのかもしれないし、写真なんか撮っている場合ではないと感じさせる圧倒的な何かがあったのかもしれない。

今なら、撮ろうと思えば、たぶん遠慮なく好き勝手にカメラを構えるだろう。それは、神仏のようなものに対する考え方がすっかりスレてしまったという所為もある。尤も、私は写真を撮ったり撮られたりするのが好きではない。自分の葬式のとき、遺影をどうするのだろうと思わないこともないのだが、これは私が心配することではない。

アルバムには日御碕の風景を写したつまらない写真とグラスボートの乗船券も貼ってある。なんでそんなものに乗ったのだろう?

微かな記憶とアルバムの写真だけを頼りに当時の道程を想像すると、翌7日には出雲を発っている。周遊券は使えないが、ばたでん(一畑電車)に乗って松江に戻っているようだ。たぶん、出雲大社前駅(一畑電車の駅の方が出雲大社に近いのに「出雲」と冠した駅名)から乗車して松江に行った。下の写真は一畑電車の川跡駅。この駅で出雲市駅から来た電車に乗り換えて松江方面へ行った。こんな電車を目の当たりにしたら、乗らないわけにはいかない。

一畑電車 川跡駅 1985年8月7日

松江からは米子を素通りして倉吉に行き、香宝寺の宿坊のユースホステルに泊まり、鳥取砂丘、浦富海岸、兵庫県浜坂、京都府宮津を経て、名古屋で暮らしていた祖父母のところに立ち寄って東京へ戻った。名古屋からは大垣発東京行きの夜行快速(夜行だが寝台車の連結はない)を利用した。165系で、快速なのにグリーン車があった。東京に戻ったのは8月11日日曜日早朝だった。

バスの切符が硬券であることに今更驚く。

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熊本熊
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