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前野直彬 『精講 漢文』 ちくま学芸文庫
学生時代は文系だ。高校で漢文の授業は当然あった。しかし、たぶん授業以外に勉強はしていない。受験科目として軽いものだったからだ。受験の得点獲得戦略として有利なことに時間と労力を優先配分する、そういう姿勢に象徴される安っぽい合理性思考がいかに人生を不毛にしたか思い知らされた。
本書は高校生向けの学習参考書を文庫にしたものだ。先日、たまたま時間つぶしに立ち寄った高田馬場駅前の芳林堂で見つけた。目的なく書店に行く時はとりあえず平台を眺めるのだが、本書は文庫の棚前の平台にあった。手にとってパラパラとめくり始めたら、目が離せなくなってしまった。
短歌や俳句を読んだり詠んだりするようになって、日本人の頭脳とか日本語の成り立ちを否応なく考えるようになった。明治に欧化政策が採られる以前、日本人の教養の標準は漢学で、現在我々が使っている言葉にはその片鱗が残っている。日本の歴史で圧倒的な期間において支配的な教養素養であった漢文あるいはそれに基づく思考というものを無視して日本や日本人を語ることはできない、はずである。本書を手にして、そういえば高校時代に「漢文」という科目があったっけな、と思ったわけだ。
本書の元は1966年6月に学生社から刊行されたものだ。巻末の解説によれば、現代の学説では否定されているような箇所もあるらしい。しかし、全体の価値を損なうほどのものではないとのことでもあり、細かいことは読後にすぐ忘れてしまうことがほぼ確実でもあるので気にしない。それよりも、そもそも漢文という科目は何だったのか、というところから思い返さないといけない。
それが、教科書が薄かったということくらいしか記憶にない。担当の先生が何故か若かった。私が通った高校の先生はジジイが多かった。前にもどこかに書いた気がするが、都立高校の校長を定年で辞めてこの高校に来たという人が多かった。少なくとも、地理、世界史、化学、物理、数学がそうだった。書道の先生もやはり元校長だったかもしれない。英語に至っては陸軍士官学校の教官だったという先生だった。そうした面々の中で、漢文の先生は例外的に若かった。漢文の授業では読解が中心で中国の歴史や文化などのことは習わなかった、気がする。そういうことはむしろ書道の時間に聴いた記憶が濃厚だ。中国の王朝のざっくりした流れは今でも暗唱できる。書道の授業は墨を擦るところから始まった。墨を擦りながら「いんしゅうしん ぜんかんごかん さんごく ぎ ご しょく ずいとうそうげんみんしん」と繰り返し唱えるのである。寺子屋の世界だ。漢字で書くと「殷周秦 前漢後漢 三国(魏呉蜀)隋唐宋元明清」となる。
本書を読んで思ったのだが、「漢字は中国から」と言う時の「中国」が一つではないという史実の意味を考えないといけない。「いんしゅうしん…」と暗唱できても、今まで考えていなかったと猛省した。漢字の音に漢音と呉音があるという程度のことは知っているつもりだったが、日本と大陸との交流の歴史を振り返れば、そんな程度であってはいけないのである。しかし、今更どうしようもない。
結局のところ、現在の漢文訓読は、奈良朝から江戸末期に至るまでの日本語が、雑然と同居しているわけだ。雑然としているからと言って、どれかの時点に統一しようとしても、もはやそれは不可能となっている。むしろ、訓読の中に見える日本語のさまざまな姿を見て、遺物を発掘する考古学者のような興味を味わうことができたら、それも楽しいことの一つに数えられるであろう。
今の中国語(北京語とか広東語とか)のことは知らないが、日本語はこれまでに積み重ねてきたものが「雑然と同居している」ものだということに気付かされただけでも本書を読んだ値打ちがあると思う。時間は無造作に流れる。工程表のようなものがあって計画的に流れるものではない。雑然となるのは当然なのだが、歴史を見るときに何がしかの法則性のようなものを探し求めてしまうのは、自分の存在を正当化したいという本能にも近い欲求によるものなのだろう。しかし、無造作、雑然、混沌、そんな言葉に象徴されることが人の在りようの実際なのではないか。それを象徴するのが母語たる日本語の漢文訓読の在りようということだろう。母語すなわち思考の根源たる言葉だけが独立して雑然としているはずはない。
雑然としているのは、その時々の都合で知識を導入した所為もあるだろう。中国には科挙という全国レベルでの上級官僚採用試験があった。試験というものには必ず正解がある。つまり、答案を作成する際の言語が「正しい」ことが何よりの大前提で、その上に試験問題に対して「正しい」解答を記述しないといけない。その「正しさ」は中国の広い国土のどこにあっても統一されていないといけない。この科挙の制度が一応の完成を見たのが隋唐の時代だという。広大な統一国家の成立と官僚採用のための統一試験の整備が表裏一体となっているのは、国家というものが意味するところの何事かを示唆している。
科挙を受験するには一定の資格を必要としたが、そこに家柄や財産の多寡は問題とされなかったという。当然だろう。「正解」は身分や政治経済を超えて「正解」として成り立っていなければ試験とそれを実施する権力の正当性を得られない。「試験」と言われて人々が必死になる社会は権力が広く承認されている社会であると言える。試験があっても不正が横行する社会は、権力が相当揺らいでいる社会ということになる。無闇に試験ばかりがある社会というのは権力の側に自信がないことの表れであり、人々が相手の「人間」を判断するに足る信頼関係が脆弱な社会と言えるのかもしれない。
科挙は、国家の倫理観の基礎であった儒教の経典である経書についての知識を問う「帖経」、詩を作らせる「詩賦」、時事論文を書かせる「時務策」から成っていた。試験に合格すれば上級官僚への道が開けるという公平な制度ではある。しかし、ある程度の経済基盤がなければ受験勉強のための知識の吸収とそのための時間を持つことができないのは現代に通じることでもある。「公平」とはそういうものだ。周知の通り、科挙制度はこの後多少の変容をしながらも清の時代まで続く。
日本が現在の姿の原型を成した奈良平安時代に、隋唐を国家運営の手本として留学生を派遣して人材育成を図り、国家としての制度構築を行ったことは、日本人や日本語の成り立ちに大きな影響を与えているはずだ。科挙に象徴される統一国家の在り方に範を求めて国家の建設を行いながら、結局はそれほど強力な中央権力の成立には及ばず、長らく地域単位のローカルな権力が並び立って覇を競う時代が続く。天下統一の後には鎖国政策で知識管理と貿易管理を行うことで権力の維持保全を図る。その間に範としたはずの大陸とは縁が薄くなり、漢文を基礎にしながらも、その本家とは異質の文化が花開いた、ということになるのだろうか。中国の方も、隋唐の後、宋元明清と国家が変転するのだから、日本の漢学漢文は、あちら側から見れば「雑然」として見えるのは当然だろう。
漢文を学ぶことの意味は、その「雑然」の背景を知ることであり、「雑然」として見えることの基礎に通底しているはずの大きな流れを感じ取ることではないかと思うのである。それによって日本人としての自分、人としての自分というものが多少は見えてくるのかもしれない。今更漢文や漢詩がきちんと理解できるようになるはずもないのだが、わからないということを識ることも心穏やかに暮らすには大事なことだと思う。
見出しの写真は、上田高校の正門。学校が上田城の敷地内にあり、上田藩主の居館の表門を校門として使用している。2019年7月に日本民藝館友の会のバス旅行で青木村を訪れた翌日、上田の街をぶらぶらしていてたまたま通りかかった。器が人をつくるのかどうか知らないが、こういう門を毎日通る3年間はきっと思い出には残るだろう。
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