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映画『日日是好日』
お茶を習っていたのに、この作品を観て漸く納得できたことがいくつもあった。2年やそこらじゃ全然ダメだったんだなと今更思う。世の中には「道」の付くことがたくさんある。茶道の他には華道、書道、武道、仏道、人道などなど。何事かを究めることによって何がしかの世界観を見出すことが道なのだろう。そういう意味では、私が稽古をしていた茶道は未だ道の域には至っていなかったのである。帛紗捌き、茶巾の扱い、茶道具の配置、その他これはああするこうすると説明できる範囲のところに留まったままでその向こう側、なぜそうなのか、というところへの本当の理解が全くできていなかった。つまり、人をもてなすとはどういうことなのか、人とは何者か、ということがまるでわかっていなかった。尤も、今もそんなことは全然わからないが。「すべの道はローマに通じる」という言葉があるが、これはローマ帝国の繁栄を表わしたものではなく、「道」というものの究極の目的地を指している言葉として転用可能だと思う。
前にも書いた通り、茶道を習ったのは茶碗を作るためだった。茶碗を作るのにそれがどのように扱われるのか知らないままではいけない。世に言う「名器」「名物」にも触れる機会に恵まれたが、殆どの場合、それは茶碗という道具の機能性とは無縁のことだ。その物に纏わる物語が「名」を決めると言っても過言ではない。しかし、物の価値が機能性に拠るものではないのは茶碗に限ったことではない。物語は物に纏わる由来や縁起という意味も当然あるが、物それ自体が使い手に語りかけてくるという意味もある。それは作り手の側の想いが物を媒介にして伝わるというようなこともあるのかも知れないが、要は第六感で伝わるものがあるということなのである。
人に五感があるのは、それが生存上必要不可欠だからだ。その五感の相互作用で五感の内に収まらない何事かが生じ、それも含めて生物としての人は自他を認識する。そういう生き物としての知覚や認識が軽視されて、ネット上で伝わることだけで人間関係をどうこうしようとする風潮を感じるが、それで果たして信頼とか信用が確立できるものなのだろうか。私には無理である。そんなふうだから友達がいないのだが、別に欲しいとも思わない。
『日日是好日』
映画としては特にどうというほどのことはない。樹木希林の出演作としては『あん』のほうが好きだ。と言っても、それほど多くの作品を観たわけではない。あとは『歩いても歩いても』くらいか。黒木華の出演作を観るのは『小さいおうち』に続いて本作が2作目。樹木希林に負けず劣らずの存在感を放っている。演技のことはわからないが、そこに居るということが重要な人のように思う。
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