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大矢野氏と大矢野城(航史記者)

くまモン記者団の、航史記者(上天草市)です!

ぼくの住む上天草市大矢野町にあったお城を紹介しようと思います。大矢野町は大矢野島にあって、戦国時代には大矢野氏が治めていました。大矢野氏は筑前国(今の福岡県北西部)原田氏の一族です。その大矢野氏が居城としていたお城が大矢野城です。お城と言っても天守閣のある立派なお城ではなく平山城でした。いまは石垣しか残っていません。ここからは大矢野町が一望でき、城主になった気分になります!

大矢野氏は、天草五人衆の一人です。城は慶長2(1597)年以降から使われなくなりましたが、寛永14(1637)年の天草・島原の乱では一揆勢が大矢野城を修復して、たてこもろうとしましたが、島原の原城を本陣としたので、大矢野城を捨てて原城に移動しました。その翌日に三角(みすみ)に集結していた細川軍1万6千人が大矢野島に船で上陸して、大矢野城は破壊されました。

元寇の乱で活躍した大矢野三兄弟の忠魂碑が本丸の一角に建立されています。鎌倉時代、元が九州北部へ二度にわたって攻め込んできた「元寇」において大矢野種保(たねやす)と弟の種村が戦って活躍しました。「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」のなかには、大矢野兄弟が船に乗っている様子が描かれ、「たねやすたねむらひょうせん(種保種村兵船)」と書かれていて、その活躍ぶりが記録として残っています。

「本と歴史の交流館 イコット」でも、9月の後半に「元寇と大矢野氏」をテーマとした企画展で展示があったので、行ってきました。

また当時の地形から、満潮の時にはなんと三方海に囲まれた海城(うみしろ)だったそうです。今は国道266号線のある大矢野町の中心地近くにあり、城だった場所には大矢野中学校が建設されました。お城がここにあったとは思えませんが、字名(あざめい)や道路の名前に「城本」「城山」と付くものがいくつもあるとお母さんが教えてくれました。たとえば、いつも「県道」と呼んでいる道路は「満越城本線(みちごえしろもとせん)」といって、「城」という漢字が入っていました。

みなさんの身近な場所にも城址や城跡は意外とあるかもしれないので、ぜひ探してみてください!

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