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アラフィフの海外暮らしって。しかもバツイチ子持ちって。

気がつくと、自覚のないまま50の扉に向かって歩き続け、もうその扉にあとちょっとで手の届く距離まできてしまっていた。

やばいやばいやばい、と、後ろをふりかえってみると、ちょっと前まで私の後ろをちょこちょこついて歩いていた、かわいいかわいい娘っ子はおらず、代わりに私の身長を超えた、ぱつっぱつのティーンネイジャーが、剃りそこなって負け犬みたいになった眉毛と、にじんだマスカラのせいで、悪い男に殴られたあとみたいな顔して「なに?」って私をみてる。

そのうえ、この家の中には、本来あるべき男の気配がまるでない。


旦那が家をでていったのは、かれこれ2年か1年前。家庭内別居期間があったので、正確にいつだったのかは、もはや記憶にない。

ただ、旦那の引っ越しの日に、せっせと荷物を運びだすのを手伝って、引っ越しトラックに友達といっしょに乗りこんだ旦那に、「じゃあね」っていったのは、もっとすごく昔のような、ついこの間のことのようでもある。

家具も物も半分になったアパートはがらんとして、初めて家族でこのベルリンのアパートにやってきた、あのクリスマス前日の風景みたいだった。

ソファーと旦那の荷物がなくなった広い寝室に、娘のふとんをきれいに敷いて、彼女のお気に入りの人形たちと、新しいクッションを並べた。

怒鳴り合いや殴り合いの喧嘩なんてなかったけれど、この日まで長いこと、冷えきった空気の漂うモノクロの家の中で、彼女だけは、かろうじて色を失っていなかった。

父親のいなくなった部屋を見て、彼女はなにを思っただろう。

「パパ、行っちゃったね。」

つぶやいた娘の横顔から、その本心を読み取ることはできなかった。

母親として、表面的には一番最悪の状況を---

例えば、娘が「パパ行かないで!」と泣き叫ぶ、とか、そういった展開を目にしないで済んだことは、何よりの救いだった。

今でも、娘に対しては、申し訳ない気持ちでいっぱいではあるけれど、私も周囲も驚くくらい、彼女は今にいたるまで、この環境に飄々と適応しているように見える。

事後報告で、日本にいる両親に離婚の事を話さなくてはいけなかった時、なかなか切りだせずにいた私を、「ママ、ほら、だめだよ。今いわないと!」とせっついて、結局、「じいじ、ばあば、あのね、パパが家を出ていったんだよ。あははは!」と口火を切ったのも、娘だった。

孫娘の突然の告白に、凍りついて言葉を失ってしまった私の両親を前に、彼女はあっけらかんと、「ママがいえないから、私が代わりにいったの。おこらないでね!」と、満足げな笑顔でいい放った。

彼女が空気を読めない人なのか、それとも空気を読めすぎてこういう行動に出るのか、時々本当にわからなくなることがある。

この時だって、彼女の笑顔の下には、ひょっとすると、私に見せまいとした、暗い、深い闇が隠されているのかもしれない、と、いや、きっとそうに違いない、と、探偵のように探ってもみた。

だけど、決定的な証拠をつかむことは、結局できなかった。

彼女の心を理解しようとすることは、深い深い、青い海の底をのぞき込んで、小さな貝殻を見つけようとするくらい、難しいことなのかもしれない。

彼女自身も、自分で海の底をのぞいて見たことはないのかもしれないし、仮にもし、その貝殻を見つけていたとしても、それが何なのかを表現する言葉を、まだ持っていないだけなのかもしれない。

いつか大人になって、彼女自身の言葉で、私にこの日の出来事を語ってくれることがあるだろうか。

その時、私もちょっとまともな母親になっていて、娘が変わらず、「ママだいすき!」とひらがなで書いた置き手紙を、ときどきテーブルに残しておいていってくれる母娘でいられればいいな、というのが、私のささやかな望みであり、自分がほんとうに、だめな人間になってしまわない、これは云わば命綱のような青写真だ。

どこまでも転がっていけそうな、根無し草の素質を持った私を、この「生活」というものに結び付けてくれているのは、娘の存在だし、それまで「あなたが私を嫌いでもかまわない。私はそれでもあなたのことが好きだから」なんて真顔でいっている女友達の台詞の意味が理解できなかった私に、その思いを迷いなく、胸に刻みこんでくれたのは、旦那ではなく、娘だった。


広くがらんとした寝室で、すやすやと、うさぎのクッションを枕にして寝息をたてる娘の寝顔は、生まれたあの頃から全然変わっていない。

お腹にいるときから、生まれ出てきた後も、24時間いっしょに過ごして、時には気が変になりそうな時間も乗り越え、わたしを「母親」の端くれにしてくれた娘に、できることなら父親の背中を見送るようなことはさせたくなかった。

でも、ごめん。ママには無理だった。

家族が同じ屋根の下に住むことは、もう二度とないだろうけれど、この世界一大切な、私の心臓に、永遠に消えない、あたたかなあかりを灯してくれた娘の存在は、あの旦那に出会わなければ、私のもとに来てくれることはなかったわけだから、そういう意味では深く感謝しているし、そもそも結婚したことを後悔する気持ちも全くない。

ただ、終わってしまったもの、死んでしまったものを甦らせようとすることにエネルギーを注ぎつづけるのは、むなしいと思い、自分は旦那を幸せにしてあげることはできないから、どうぞ自分の幸せを見つけて、と、最後にいうしかなくなってしまった。

一度だめだと思ったら、もう無理なんだよね、というのは、たいがい女友達だ。わたしも、例にもれず、そんなドライな女という生き物の一人だったということなのか。

多分娘も大人になったら、こんな女の気持ちが分かるときがくるだろう。

この母親の娘だし、あの父親の娘なのだから。


とりあえず、引っ越しの翌日から、私のシングルライフはスタートしたわけで、やらなきゃいけないことが山ほど待ち構えていた。

旦那は家からいなくなっても、ここは日本のように、ハンコ一つじゃ終われない国。弁護士を介した離婚手続きは継続中だし、何より、慰謝料なんてもらう約束していない私は、シングルマザーとして生計を立てていかなくてはいけない。

だから、私は、といえば、旦那のいなくなったうちの中で、何かの感傷に浸ろうとか、そういう気分でもなく、旦那の引っ越しのために買った段ボール代の半分と、旦那の新しいアパートのキッチン電化製品の代金の半分を払うことに同意させられたことが、やっぱりどこかで納得できずにいて、

やっぱ無理だったわ、

と心の中で、何度も繰り返していたかな。部屋の片付けしながら、あの時は。


それにしたって、50手前で「シングルマザー」「バツイチ」っていう肩書を手に入れるなんて、ぜんぜん私の人生計画にはなかったんですけど。

しかも、故郷日本を遠くはなれた、この、縁もゆかりもない、ベルリンという町で、第二の人生を歩き始めることになるとは。

人生、何が起きるか分かったもんじゃない。

今もし、若いころの、20歳くらいの私にアドバイスできるなら、こう言ってあげたい。

「人生は、思った以上に面白い。先のことなんて、どうせわからないから、まあ、そんなに悩みなさんな。」

そして、もしこの文章を読んでくれている、私よりも年若い女性がいるのであれば、こう伝えたい。

「大変なことも、後になってみれば、人生どうにかなるって、必ず思えるから、今いろいろあっても、大丈夫だよ」

アラフィフ、バツイチ、シングルマザーという肩書が、日本ほどはたいして重みのないこの街に住んでいることが、救いなのかもしれないけど、ここでは外国人という立場のアジア人の女が、優遇されることは決してない。

それでも、雑草のように、異国の地でなんとか生きている。

悲壮感はないよ。たとえ人が、こんな私を哀れに思ったとしても、私は気にしない。

それは、ここでの人生にちょっと迷ったとき、こんな私の背中を押してくれた、私より若くて先に逝ってしまった友人が、教えてくれたから。

「やりたいことをやらずに、人生を終わらせないでね。後悔しているうちに、残された時間は少なくなっていくだけだから。」

彼女の分まで、私はまだここで生きていくよ。

もうすでに、棺桶に片足を突っ込んでいるとしてもおかしくないんだから、

残された人生は、自分の気持ちに嘘をつかずに生きたい。


娘が18になるまでのあと数年、私は母親としての役割を、こんなに自分に向いていない役割を、それでも必要としてくれる娘のために、なんとか演じてみようと思う。

アラフィフでも、バツイチ子持ちでも、そんなのどうだっていいじゃん、と思わせてくれる、この、雑多で自由で、自分らしさをゆがめないで、むしろ無駄に増幅すらさせてくれる、ベルリンという町で。

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