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生きていく中で、道に迷った時に思いだす言葉

先日、記事の中で夢日記について書いたところ、突然昔の色んな記憶が蘇ってきた。

それと同じタイミングで、突然、長らく音信のなかった古い知人からメッセージが送られてきたり、FB上で流行りの、「子供時代の写真」をアップする企画が回ってきて、昔のアルバムを探してみることになったり・・・

そんな風にして過去を振り返り、記憶をたどる作業を始めた時、昔自分が書いていた文章のいくつかに行きあたった。

そうか、自分こんなことやって、こんなこと考えてたんだな、と、まるで他人の話を読むような、妙な気分だった。

今こうして、つらつらと思いついた事を書いているけれど、実際何がしたくて、何の目的で、という部分は、実はぼんやりしたまま、ただ思いつきで書き始めたのだったけれど、昔書いた文章には、ちゃんと伝えたいことや、伝えたい人たちがいて、今の自分にない、「目的」があったんだ、ということに、なんだか驚いてしまった。

昔の自分の方が、なんかしっかりしてたじゃん。ちゃんと考えてたじゃん。

いったいどこでどうやって、そんな情熱のような、目標のようなものを、忘れて今ここに立ち止まっているんだろう?

そう、なんとなく、今の自分は道に迷った旅人みたいに、どこに向かって歩いていいのか、思いあぐねてうろうろしているような、そんな状態が長いこと続いていて、正直、道を探すことに疲れてしまっていた部分もあった。

ぼんやりとしたゴールの風景は想像できていたけれど、もう、辿り着けないまま、終わってしまうのかな、それも仕方ないのかな、というような、あきらめにもにた気分。

ここにきて、過去の自分を発見することで、またうっすらと、霧の中に続く道が見え始めてくるとは思いもよらなかったけれど、人生というのは、こんな風に迷いながら、時には来た道を後戻りしながら、カタツムリのように歩を進めていくものなのかもしれない。

若いころのように、新しい発見や、刺激的な人やモノとの出会いが日常にあるわけでもない、(いや、そんなものをすでに望むほどの体力もない・・・)ミドルエイジの私の人生にも役割があるとするならば、それは今までの経験とか、失敗も含めた体験とか、培ってきたスキルを、次の世代の人たちに手渡すことなんだろうなと。

人生50年近くやってきて、そうだ確かに、こんな自分にも一生懸命だった時代があって、学んで、経験して、時には大失敗をやらかして、それでもここまでなんとかたどり着けたことには、何かしら意味のあることだったんだろう、そんな風に前向きな気持ちで、今の自分を労わってあげられるような気がした。

反面教師でもいい、こんな大人にはなりたくないと思う人には、気づいて方向転換させる役目になるのなら、それでいい。

私も、そうやって親に反発したり、感謝したり、大人たちから教えられたり、たくさんの本から学んだり、人間関係でもまれたりしながら、どうにかこうにか生き抜いてきた。

まだまだ、中途半端な大人だし、あ~、めんどくさい、と見てみぬふりをしたままの課題とか、何度指摘されても修正できない性格上の問題だってある。

だけど、まあ、言い訳かもしれないけれど、人は完璧である必要はない。

世の中には時折完璧か、それに近い人物もたしかに存在するかもしれないけれど、そんな完璧に囲まれて生きていける人は、ごくごく限られた数の人なんじゃないだろうか。

それよりも、完璧じゃない世界や自分自身の心の、ドロドロとかぐちゃぐちゃしたものの中から、時折見つける宝石のかけらみたいなものが、素晴らしく美しく見える人生の瞬間だって、貴重だ。

いやむしろ、そういったものの美しさの方が、心には深く刻みつけられる。

人生は、落胆と感動の繰り返しだけれど、心が震えるほどの感動というのは、そうそう頻繁に起こるものではない。(中には感動の連続の中に生きている人だっているかもしれないけど、人は感動にすら、だんだん慣れていくものだ)

だから、何が自分の心を深く揺り動かすものなのか、それさえ見失わずに人生を歩いていけば、多分、人生のゴールにみえるかすかな光の方向に、必ず導いてくれるんだと思う。

私もまた、旅の途中の何度目かの分かれ道や回り道に行きあたっていたけれど、(実際、何度でもこの分かれ道に遭遇する。)5年くらいかけてようやく、少し今の居場所が分かった。

もう何度も同じように迷ってきたのにね。それすらも忘れてしまうんだ。だけど、迷った道の途中でも、学ぶべきことがあったから、遠回りしたけれど、こうして元の道にもどってこれたんだと思う。

そして、ああそうだった、こんな大事なものをしまったままにしていたよ、という宝物を再発見できたこと。こういう再会は、人生の節目の時期にやってくるものだ。

私にとってそれは、長いことしまい忘れていたけれど、いつもぼんやり心の片隅に刻まれて、自分を最後のところで見失わないように守っていてくれた、大切な言葉。

私自身クリスチャンではないけれど、人の人生というものの、究極の目的を、その行動で示したマザーテレサの言葉。

宗教に関係なく、人が人として存在する意味みたいなものを、シンプルに、そして美しく言い表してくれた言葉。

もし今、道に迷ったり、ばかやろう、と叫びたいくらい腹の立つことがある人がいたら、この言葉を送りたい。

物事は思い通りにいかず、時にはどうしていいのか分からなくなってしまうことが起こる。

でも人生というのはそういうもので、そんな暗闇の中でみつけた、光る宝石のかけらを拾い集めながら、時には這いつくばって進まなければいけないこともある。

そしてある時期がきたら、その宝石を次に必要とする人のために道に残し、何も持たずに来た場所に還っていく。

死ぬときは何ももっていけないけれど、見つけたものを、誰かに残していくことはできる。

私ももう、十分なくらい、受け取ってきた。残りの人生は、それを手放すための時間でもある。気づくのが遅かったくらいだ。

今度は拾い集めた宝石のかけら、もらった宝物を、ひとつづつ、必要な人のために残していく番なのだ。

どれだけの時間が残っているのかは分からないけれど、そしてまだ学び損ねていることも山ほどありそうだけれど、このマザーテレサの言葉をもう一度しっかり心に刻んで、ゴールまでの一歩をまた歩きだそうと思う。

このマザーテレサが世界の人のために残していってくれた道しるべが、暗闇の中で光を必要とする人の道を、照らしてくれることを願いながら。


私たちは、この世で
大きいことはできません。

小さなことを
大きな愛をもって
行うだけです。



人は不合理、
非論理、利己的です。

気にすることなく、
人を愛しなさい。

あなたが善を行うと、
利己的な目的でそれをした
と言われるでしょう。

気にすることなく、
善を行いなさい。

目的を達しようとするとき、
邪魔立てする人に
出会うことでしょう。

気にすることなく、
やり遂げなさい。

善い行いをしても、
おそらく次の日には
忘れられるでしょう

気にすることなく、
善を行い続けなさい。

あなたの正直さと
誠実さとが、
あなたを傷つけるでしょう

気にすることなく
正直で誠実であり続けなさい。

助けた相手から
恩知らずの仕打ちを
受けるでしょう。

気にすることなく、
助け続けなさい。

あなたの中の最良のものを
世に与え続けなさい。
けり返されるかもしれません。

気にすることなく、
最良のものを与え続けなさい。

気にすることなく、
最良のものを与え続けなさい…。



(世界平和のために
何をしたらいいのかと聞かれて)

帰って家族を
大切にしてあげて下さい。

もしサポートいただけたら、今後の継続のための糧にさせていただき、面白いと思っていただける記事をかけるよう、さらに頑張ります。