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世界が変わる方向に、きっと明かりがさしているという希望を捨てずに

ロックダウン生活もそろそろ2カ月目を迎えようとしている。

4月の終わりに、ベルリン市内の小規模商店の再開が許可され、街が少しだけ息を吹き返したように感じる。

買い物に出かけるため家の外に出ると、いつの間にか街路樹がまぶしい緑色に変わり、通りにも人の姿が増えて、いつもの春のベルリンの風景に近づいてきたような気がするけれど・・・明らかに以前と違っているのは、道行く人々の大半がマスクを着用していること。

コロナ以前、街中でマスクをしている人を見かけるなんて、皆無だった。

本当にごくまれに、観光客らしきアジア人が、マスク姿とスーツケースで歩いているのをみかけることもあったけれど、ドイツの生活に慣れてしまうと、日本人の私ですら、アジア人のマスク姿に、「なんであの人マスクしたまま歩いてるんだろう」と一瞬視線を向けてしまうほど、ここでは珍しい姿だった。

以前、ドイツ人になんでヨーロッパの人はマスクをしないのか、という質問をした時に、「この国でマスクをするのは、顔を見せられない人だけ。例えば強盗とかね」と言われ、なるほど、と思ったものだ。

ドイツでは、確かある一定の人数の集まりで顔をマスクなどで覆う事は禁止されている、というのを聞いたことがあるけれど、そもそも、街中でのマスクというのは、衛生上の理由という観念は全くなく、顔を隠すためのもの、というのが一般的なイメージだったようだ。

日本みたいに治安のいい国でなければ、顔を隠すというのは特別な事情のある場合、そう、マスクをしているのは訳ありの人物、ということなのだ。

それを聞いてから、まずマスク姿の人をみかけることなんて、ほぼほぼないんだけれど、アジア人以外のマスク姿を街中でみかけると、ちょっとあの人ヤバいかな?と、とりあえずその人物とは距離を置くようになった。

まあもちろん、見るからに怪しそうな人物がマスクなんかしていたら、速攻警察から尋問されると思うけど。

だから、日本に帰ったとき、マスクだらけの通行人をみて、「日本って、やっぱり平和な国なんだな」としみじみ感じたものだった。

しかし、それが今や、ベルリンの街中がマスクだらけ。

私自身は、マスクが手に入らないのと、公共交通機関に乗ることもほとんどないので、着用せずに街を歩いていたのだけれど、アジア人のマスク無しは私だけ。アウェー感半端なくて、びっくりしてしまった。

もしかするとドイツ人から、「あの人なんでマスクしてないの?しかもアジア人なのに・・・」という視線を送られていたかも・・・しれない。

世の中の変化の速さに、完全に乗り遅れているのを感じ、知人の店で売っていた手作りマスクを購入して帰った。

これで私も、一人前のベルリナー・・・なのか?いやなんだか、まるで日本に戻ってきたみたいな気分がするんだけれど。

通りで知人にあっても距離を置き、ハグもしないベルリナーたち。日本人みたい。ベルリン(いや、全世界?)の日本化?

目の前を通りすぎるトラムの中の乗客も、ほとんどがマスク。なんて不思議な光景なんだろう。

ちょっと前の常識はもはや通用しない。部屋に籠っている間に、外の世界は変化し続けているのだ。それもすごいスピードで。

私が子どものころ、「水がボトルに入れられて売られる」なんて、考えられないことだった。それがいつのまにか、当たり前になっていた。

子供向けのアニメーションで、「空気をボトルに入れて売る」という話があって、いくらなんでもそれは、と思って見ていたけれど、それだって大気汚染のひどい国ではすでに商品化されているものだ。

私たちの生きる世界は、自然に当たり前に存在したものを、もはや商品としてしか手に入れることができなくなり、マスクというフィルターを介さなくては、呼吸すらできない。

幾つかの過去の映画が、まるで今の世の中を予言していたかのようだ!なんて言われたりしているけれど、妄想や想像の中だけだったはずの世界が、今や私たちの現実となっていくこの「映画みたいな現実」へのシフトは、今後どれだけ頻発することになるんだろうか。

大学時代に心理学を副専攻していたのだけれど、その時の教授から、深層心理を探求するために「夢日記」をつけてみなさい、と言われ、興味本位でやっていたことがある。

その時、いくつかの不思議なイメージが「突然空から降ってくる」ことがあって、自動書記みたいな状態で書き留めたストーリーがあるのだけれど、(この時の不思議な体験は、また別の機会に書いてみたいと思う)そのうちのいくつかは、当時は「なんだこの、変なSFチックなストーリー、どこからやってきたんだ?」と思っていたのだけれど、今まさに、そのSF的な世界が、現実みたいになってきている。

そんな経験もあって、人間の集合意識というか、深層心理の中に、私たちは過去や未来に関するビジョンや共通のイメージを持っていて、それは特別なツールや技術をもっている人たちや、たまたまそこにアクセスしてしまった人たちが見ることができるもので、映画や小説のネタになっているもののいくつかは、そこから来ているんだろうな、と、なんとなく感じていた。

実際、小説家だか映画監督だかが、何かのインタビューで、「映像が、突然シャワーのように頭の中に降ってくる」という表現をしていたのだけれど、本当に、私の頭の中に「降ってきた」イメージも、光のシャワーのような、まさに「降ってきた」としか表現できないものだった。

まあ、私の場合は残念ながら自分の創作に生かせることはなかったけれど、多分、それは人間の集合意識みたいなものにアクセスした瞬間に起こる、自動インストール?の反応みたいなものなのではないだろうか。

こんな言い方をするとオカルトだとかなんとかいう人もいるかもしれないけれど、機械音痴で超アナログの私にしてみれば、今の世の中みたいに技術が発達して、クラウドみたいなよくわからないインターネット上のシステムとか、ハッキングなんていう、特殊な技術を持っていろんなソースにアクセスできる人っていうのは、要はこの人間の集合意識にアクセスできる技術をもっている人と同じようなものだ。

だって、一般人が見れないものを、しかも地球上に存在する大量の情報にアクセスできるわけでしょ?この人たちのことを、サイキックと呼んだっていいと思う。

とにかく、私たちはいま、少し前まで映画の中でしか見たことがなかったような世界を現実に生きていて、まさかそんなことが、と思っていたことが現実になっていく世界を生きている。

いったい、1カ月後の街の風景は、世界の状況は、どんなことになっているんだろう?

そんなことを考えていると、今までの常識にとらわれていてはいけないんだな、ということをしみじみと感じる。

マスク着用で尋問されかねなかった国が、数週間のうちにマスク無しで歩くと罰せられるくらいの変化は、まだまだ序章にすぎないのかもしれない。

そろそろ、本当にアメリカあたりが、「宇宙人を紹介しまーす!」なんて言い出すのかもしれない・・・スノーデンさんはいないと言ったらしいけど。

現実的には、コロナのせいで、世界中に失業した人たちがあふれ、これから先、世界がどんな風に変わっていくのか、決して明るい見通しばかりではない。

だけど、世界の富はほんの数十人の大富豪の人たちの手に握られていて、彼らの中のほんの数人が、本気でその財産を世界のために差し出そうとしたりしたら、どれだけの人が救われるのだろうか・・・なんて想像してみたり。

お金持ちはお金持ちで、守らなければならないものもたくさんあるだろうし、すでに世の中のためにと、多額の寄付をしている人たちだってたくさんいる。

でも、世界の富の不均衡、格差は広がるばかり。これは、世の中のシステムがそもそも間違っているからに他ならない。

何十億もする家を、いくつも所有している人たち、たかだか70,80年の人生で、そんなに多くの家や物が必要なんだろうか?

ブラジルの大統領のように、「人はどうせいつか死ぬ」みたいな発言はさすがに・・・だけれど、日本の政治家だって、国のために働いていますという建前で、お金に群がってる人たち、なんでそんないい歳して(失礼)、まだまだそんなにお金が欲しいの?コロナさえも金儲けの手段?

まあ、小さなアパートの一室でそこそこ満足できる自分のような人間には、決してその人たちの感覚は理解できないんだろうけれど。

今はただ、この早いスピードで変化していく世の中が、きっとそれぞれのタイミングで何かの明るい光に照らされて、みんなが笑顔で過ごせるような方向に向かっていくことを信じることにしよう。

久しぶりに友達に会えることが、これだけ嬉しいことなんだと気づかされ、何気ない日常がままならなくなったことで、大切なことが何かを気づかされ、その思いはこれからの社会や世の中を変えていくことになるだろう。


今日、近所のマーケットに行くと、お祭りのように人があふれていた。

半分以上の人はマスクで顔が見えなかったけど、みんなが人とのやり取りを心から楽しんでいるのが伝わってきた。

平和な休日の日常の風景。

それはなんだか、ずっと昔に見た夢の中の世界のように、美しかった。






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