ベルリンがコロナ後も、ベルリンでありつづけるように
気温の上がった週末のベルリン、運動不足を解消すべく、買い物がてら、あまり人が歩かなくて、去年の今頃はジョギングの定番コースだった公園までの道を久しぶりに歩く。
やはり、久々の15度越えとあって、街中に人の姿が多い。だけど、家族以外の2人以上での行動が制限されているため、歩いているのはカップルなど、2人組だらけ。公園の中も、この天気だったら満員御礼のはずの芝生エリアも、2人組または家族連れがまばらに点在しているのみ。
先々週までは、外であれば人と会うこともできたので、公園内に小さなグループがあったり、公園の遊具で遊ぶ小さい子どもの姿もちらほら見かけられたのだけれど、ついに2人以上のグループ禁止となり、そして遊具も使用禁止のテープで囲われ、近づくこともできなくなってしまった。
それでも、ジョギングなどの運動は禁止されていないので、かなりの数のランナーたちが、公園周辺を走っている。
私も9月のベルリンマラソンにエントリーしているから、本当なら、こんな天気のいい週末なら、トレーニングをすぐにでも開始しなくてはいけないのだけど・・・
4月のハーフマラソンはもう早い時期に中止が告知されていた。9月の終わりのベルリンマラソン、みんなそれに向けて、トレーニングをしているんだろう。中止にならないことを願っているし、ジムが閉鎖されている今、私も外を走らなくてはいけないのだ、本当は。
しかし、去年痛めた肩がいまだ完治しないというのもあるけれど、なんかこう、ジョギングして人の多い場所で、はあはあと大きく呼吸することが、今は爽快な気持ちになれない気がするのだ。ウイルスのせいで。
もともと、自分は風邪もひかないし、基本健康体だから、コロナウイルスに感染してたとしても、そんなに大事にはいたらないだろう、と、思ってはいる。
だけど、もし自分が知らない間にウイルスにどこかで感染していたとしたら、こういう無症状の感染者が他人にコロナをまき散らしてしまうんだ、という危機感がある。
イタリアの病院で起きている惨状をニュースで目にする度、何が何でも、自分は発病したくないと思うし、人に感染させたくないと思う。
今のところ、ドイツでは医療崩壊はおきていないけれど、感染者となれば、病院のお世話にならざるを得ないし、そういう人が増えてしまえば、医療現場に負荷がかかってくる。
まさに命がけで現場で働くお医者さんや看護師さんたちの事を考えると、これ以上感染者を増やさず、万が一感染、発病してしまっても、最低限の医療を受けるだけで完治できるくらいの体力と健康状態を維持するために、自分も考えて行動しなきゃいけないなと。
多分、メルケル首相のスピーチを聞いた後から、多くのドイツの人々の意識が変わったんじゃないかな、という雰囲気はある。
コロナパーティーとか言ってる場合じゃないんだ、ということ、自分が他人や社会に対して責任をもっているんだということを、メルケルさんのスピーチはとても分かりやすく、人の心に訴えかけた。
そして外国人の多いベルリンは特に、家族や親戚や友達が、イタリアやスペインで生活している人も大勢いるだろうから、実際、ニュースで目にする惨状は、全く他人事ではないのだ。
だから、日本のニュースを見ると、なんだか別世界のように感じてしまう。
ドイツ人からも、「日本の感染者の統計は本当なの?」と聞かれた。
「日本人は綺麗好きでマスクや手洗いをするから大丈夫なんだよ」と言う人と、「検査数が少ないからって聞いたけど?」という人と、色々なんだけれど、私だって、本当のところは分からない。
花見に大勢の人が繰り出している日本の風景は、昔の物語のようだ。
まるで日本だけが、別の星に存在しているような。
ベルリンでは、すでに日常生活が様変わりしてしまって久しいので、引きこもることにも慣れてしまった感覚と、これがいったいいつまで続くのかという漠然とした不安や、時間はあっても友達には会えない、というもどかしさなんかの入り混じった、非日常の日々がもうしばらく続いている。
街の中の店がことごとく閉まっていても、それが見慣れた風景へと変わっていってしまった。
いつかわからないけれど、いつか終わることを期待しながら。
あきらめににた気持ちだけれど、どこか無感覚のようでもある。
何にしろ、ほとんど人と会っていないし、パソコンの前に座っている時間が増えてしまったので、淡々とした日常が、限られた空間の中で繰り返されていて、昨日と今日の違いが良く分からないような有様なのだ。
だからこうしてたまに外の空気を吸うと、ああ、街にはちゃんと人がいて、世界は終わってない、ということを、確認できる。
知らない人たちだけれど、その人たちの存在が、安心感を与えてくれる。
だけど、散歩の途中、前に何度か行ったことのあるレストランの近くを通った時、急に現実が押し寄せてきた。
レストランの入り口に出した一つのテーブルに、頭を抱えて座るスタッフの姿が目に入ってきたのだ。
そこは陽気なスタッフが大勢働く、活気のあるイタリアンレストランだった。春になると店の外にたくさんのテーブルを並べて、白くてきれいなクロスや並べられたワイングラスが通りからも見え、こんな天気のいい日だったら、予約なしにはテラス席は座れないようなレストランだ。
イタリア人らしい接客で、いつも笑顔と冗談と、それでもきっちりしたサービスをするプロフェッショナルなケルナーたちが、パリッとした制服で働いているのを見るのは、ベルリンの無機質なサービスに慣れてしまった私には、そうそう、サービスってこういうものだよね、というのを思いださせてくれる貴重な場所だった。
でも今は、空っぽのテラスに、たった一つのテーブル。そして多分、そのスタッフはテイクアウトのみの対応で、入り口に待機しているのだろう。
いったいどれだけのお客が、彼らの店(ピザなんかではなく、きちんとしたイタリアンを提供するレストランだ)にテイクアウトのオーダーに来るというのだろう。
頭を抱えて座るスタッフの姿を見て、悲しくなった。
インターネットの中の情報に、胸を痛めるのとは違った、リアルな感情が胸に押し寄せてきた。
キッチンのスタッフや、フロアのスタッフ、大勢の店のスタッフたちは、今どうやって過ごしているんだろう。
自分の仕事のことだけでなく、イタリアにいる家族や友達のことを心配しているかもしれない。
彼の気持ちを想像したら、いたたまれなくなって、足早に店の前を通り過ぎてしまった。
一瞬、テイクアウトを考えたけれど、家から離れた場所でまだ買い物も終わっておらず、何より、自分だって今は贅沢をしている場合ではないのだ。
ここのように、一部テイクアウトにみに対応して営業している店もあるけれど、ほとんどのベルリン中の飲食店は、もう長いこと閉鎖されたままだ。
すでに、この期間で廃業してしまったと思われる店舗もいくつかみかけた。
今、世界中のたくさんのレストランのオーナーやスタッフは、彼と同じように、頭を抱えて、このひと月を過ごしている。
自分も、大昔に飲食店の経営をしたことがあるし、長いことガストロノミーの世界にも関わってきているから、彼らの置かれた状況や、今の気持ちが、痛いほど分かる。
そして、もちろん、これは飲食店に限ったことではなくて、今やスーパーや薬局などの、幾つかの限られた業種以外の店は、ことごとく、同じ状況なのだ。
私の友人知人の中にも、相次ぐ仕事のキャンセルや延期で収入の見通しがつかなくなったり、職場の閉鎖で突如廃業状態になったりしている。
すでに、会社が倒産してしまったところもある。
私自身は、といえば、これをケガの功名というのか何なのか、肩の負傷でたまたま保険適用期間中だったのと、学校の仕事は急遽オンラインに切り替えられたおかげで、とりあえず今、ぎりぎりだけど、食うに困ることはない。
もちろん、学校の仕事だってこの状況が長引けば生徒が減ってしまう可能性は大いにあるので、わたしだって一歩先は廃業の危機だ。
ただ、ドイツの政府は救済策を講じているので、失業や倒産の危機から、できるだけ多くの人が脱することができるだろうと、期待してはいる。
今週の金曜日には申請が開始されたため、今現在、たくさんの人々がオンライン申請の窓口に殺到している状況だ。
国の財力にも限界はあるだろうけれど、このウイルス禍が一刻でも早く過ぎ去って、みんなが職場に戻り、顔を合わせて仕事をし、街中のレストランやショップのスタッフやお客の笑顔が街に戻ってくれることを、心から待ち望んでいる。
ささやかな幸せの時間の一つ、カフェやレストランで、友達や仲間とビールやワインを片手に、他愛のない話で盛り上がる、そんな日常をみんなが待ちわびている。
そしてもう一つ、ベルリンカルチャーの象徴ともいえるクラブ、こちらも苦境に立たされているけれど、今、一部のクラブがストリーミング配信を始め、オンライン営業をしている。
私も若いころは、仕事の後に仲間と夜な夜なクラブに繰り出していたけれど、ベルリンに来たときにはとっくにそんな年頃も過ぎ、朝までクラブ!なんていう体力も、寒い夜に出歩く根性もないので、ベルリンでのクラブ活動はわずか1回のみ。
それでも、もしチャンスがあれば、あの大音量の中で、一種のメディテーションみたいに音に没頭できるクラブにまた行きたいな、とも思っているし、ベルリンのクラブシーンに活気があることは、この街の大きな魅力でもある。どうか、クラブもこの困難な時期を乗り越えて、ベルリンの夜の混沌とした風景を復活させてほしいと思う。
ARTE concert の リンクは以下
今はみんなが同じように、大変な時期を過ごしている。
だからこそ、人を思いやる気持ちというのが、多くの人の心の中に沸き起こり、それを共有できるということは、一つの救いだとも思う。
今日も夜の9時、医療従事者への応援と感謝の気持ちを表すための拍手が通りに響いた。
みんなそれぞれ、場所は隔てられているけれど、気持ちを通じ合わせることはできるし、それを態度で表すことだって可能なのだ。
今、そんな光景を目にすることができるというのは、たくさんの人の心の支えになっていることだろう。
帰り路に立ち寄った公園、今日の気温上昇で、公園裏手の桜並木は満開の桜が散り始めていた。
去年は忙しくて、そして今年はコロナで、結局友達との花見はまた来年まで持ち越されてしまった。
だけど、生きていれば、また春がやってきた喜びを、みんなと共有できる。
今、苦しい思いをしている人たちも、生きていれば、きっとまた笑える瞬間が来るはずだから、ウイルスにも、この厳しい状況にも負けないでほしい。
ベルリンに住む私たちは今、台風の目の中のような、変に静まり返った嵐の真ん中にいる。
だけど嵐はきっとすぎ去るし、世界中の国にも、ベルリンにも、日常が戻ってくることを信じている。
今はただ、私は自分にできること、自分がやらなきゃいけないことを、淡々とでも、この狭いアパートの空間で日々こなしていく。
そして、窓の外の世界が日常に戻った時、お互い頑張ったね、という気持ちの交流が、前よりもずっと、人と人との関係の大切さを、再確認させるだろう。
一日でも早く、その日が来ますように。
もしサポートいただけたら、今後の継続のための糧にさせていただき、面白いと思っていただける記事をかけるよう、さらに頑張ります。