夏日のベルリンにて家にこもり、マスク2枚と死について考える
桜が満開となった2週間前のベルリン、そしてサマータイムに変更になったその日に、雪が舞った市内。
そして、今日は20度を超える夏日となった。
夏の短いベルリンでは、気温が15度あたりを超えようものなら、待ってました、と人々は外に繰り出し、カフェのテラスはこんなに人がいたの?と思うくらいに込み合う季節。
けれどコロナウイルスによるロックダウンの開始から、街の風景はすっかりと変わってしまい、毎日が日曜日のような不思議な日常が続いている。
私もふと、いったいいつからこんな風に家にひきこもる生活を続けているのか、どれくらいの時間が過ぎたのか、もはや正確には覚えていない、ということに、気がついた。
かれこれ3週間?4週間目?もしかして1カ月たった?
まるで、記憶がなくなってしまったかのような、妙な感覚。
目に映る風景が家の中だけ、と、余りにも限定されていて、変化に乏しいものだから、時間の経過や今日と昨日の違いがよく分からない。
もちろん、オフィスには行かずに朝から自宅で仕事をしている人は大勢いるし、業種によっては、オンライン業務に変わって前よりも忙しくなった人もいるようだし、医療関係者の人たちは、この大変な状況の中で、緊張感の中働いてくれている。
家の周辺のオフィスや店の中は空っぽでも、見えないところで社会の大部分は機能し続けている。
そして、段階的に制限が厳しくなったとはいえ、外に出ることが一切禁止されてるのではないので、街の中から全く人の姿が消えてしまったわけでもない。
ただ、違っているのは、私の世界が家の中にほぼ限定されてしまったということ。そして、知らない人には道端で会うけれど、知っている人には一切会わない、会えない、ということだ。
家族以外の2人以上の接触が禁じられているので、基本、友達と集まるなんてことはもちろんできない。
2人で会おうと思っても、お互い、ウイルスに感染していないとは100%証明できないし、私みたいな子持ちだったりすると、もし自分が感染すれば、子どもに感染する恐れも出てくるわけなので、そうそう気軽に約束できる状況でもないのだ。
メッセージを送り合ったりして時折連絡を取るけれど、本当にずいぶん長いこと、友人知人に会っていない・・・
娘は娘で、学校が閉鎖されてはや・・・はや3・・・いや4?週間、最初のうちはオンライン授業なんかもきっちり行われていたようだけれど、今は「本当のイースターホリデー」に突入したので、やることもなく、ひたすら家の中でのんびりとした1日を過ごしている。
外にも行きたくない(やっぱりちょっと心配だから)友達にも会えない、家にいるしかない。さぞかし退屈だろうと思いきや、もともと一人っ子で一人遊びに慣れているからか、さほど時間を持て余している様子でもなく、次から次にやることを見つけ、案外充実した日々を送っているかのようだ。
私の日常も、オンラインの学校のクラスが週に数回あるのと、ときおり行われるプライべートのレッスンがあるくらいで、正直、ろくに仕事をしていない状態。
この状況だと学校から新しいレッスンが追加されることは殆ど予想できないし、メインの仕事はコロナ以前から肩の故障で休業したままなので、多分、この状況は当分変わらないか、減ることはあっても増えることはないだろう、というのが当面の見通しだ。
実際、コロナ直前に決まりかけていたレッスンも、突然のロックダウンで流れてしまったし、生徒の中にも、コロナ騒動直後から、クラスに出てこなくなってしまった人もいる。
本来なら、こんな状況になれば経済的に破たんして、今月の家賃も払えない・・・となりかねない事態なのだが、ここドイツでは、ロックダウンの直後に様々な経済補償の対策が行使され、私のようなフリーランスにも、ものすごく簡易なオンライン手続きの2日後、5000€が口座に振り込まれることとなったのだ。
日本のメディアでも取り上げられたメルケル首相のスピーチでは、「連邦政府は、経済的影響を緩和し、特に雇用を守るために可能なことをすべて行うと約束します」とはっきり明示されていたけれど、正直、ここまでのケアが、このスピードで行われるとは予想していなかった。
もちろん、手続きが簡易とはいえ、確定申告の際にきちんと書類で証明しなくてはいけないので、私みたいに、まだかろうじて仕事が全滅してはいないパターンであれば、後々がっぽり税金でもっていかれる可能性は大なので、「やった5000€!」と、気軽に使っていいお金では決してない。
それでも、とりあえずこの先数カ月、家賃が払えなくなる心配をしなくていいというのは、なんという安心感か。
いやもし、家賃が払えなくなっても、大家は借主を追いだせない、そして大家には未回収の家賃の補償がされるという決定もあり、誰もが路上生活に転落することがないよう、様々な対策が施行されている。
この申請がスタートした3月27日の金曜日は、サーバーがダウンするほどの混雑ぶりだったようだけれど、ものすごいスピードで処理が行われ、申請者は2日後に口座を確認して、「すごい・・・本当に5000€が・・・」となったわけだ。
ベルリン在住の日本人フリーランサーの間でも、申請のための情報が共有されて、殆どの人が無事給付金を受け取れていたようだった。
外国人で、フリーランス。はっきり言って、最初に切り捨てられてもおかしくないくらい、こんな弱い立場の人間が、本国の人間と同じ条件で、「とりあえず5000€」受け取れるとは、なんというか、冗談のような待遇とも言えるかもしれない。
だから、その数日後の4月1日に、
「速報! 安倍首相が明らかに 全世帯に布マスク2枚配布へ!」
というテロップを目にした時、
「エイプリルフールのフェイクニュースに間違いない」
と思ったのは、私一人ではなかった。
予想通り、ネット上ではこの話題で持ち切りだった。
これが冗談じゃなく、ホンモノのニュースだと確認したときの衝撃。
「一人につき60万支給」と「一家族につき布マスク2枚」。
だれかが、「B29に竹槍で向かっていくようなもの」なんてコメントを出していたけれど、まさに、戦時中の日本の根性論みたいなものがよみがえったかのような、ある意味ショッキングな報道だった。
(とりあえずは、ここ最近で一番笑いましたけどね。)
今、国全体が敵(ウイルス)に向かって全力で戦いを始めている。その間の危機を、とりあえず、
一人60万でしのいで!(夫婦共にフリーランスであれば、120万だ。)
と言われるのと、
家族に2枚の布マスクでしのいで!
と言われるのとじゃ、どれだけの違いがあるって・・・
日本、大丈夫なのか?家賃はマスクじゃ払えない。
そして先日、やっと発表された30万円の緊急経済対策という政策も、ふたを開けてみれば、ものすごいハードルの高さ。全世帯じゃなくて、「一定の水準まで所得が減少した世帯に30万円支給」
住民税非課税家庭ってことは、独身なら年収100万円以下らしいけれど?年収100万?
そもそも、手続きのための書類を集める手間がどれだけかかるか、ということも全く考慮されたように思えない。
人ごみを避けて、といいながら、窓口に出向かないと事が済まないような、そして該当するのもほんの何割かの国民。
しかも、スタートは5月中旬???緊急の意味は???
「自民党でも一律給付の議論がありました。私たちも検討した。たとえばですね、私たち国会議員や国家公務員は、いま、この状況でも全然影響を受けていない。収入に影響を受けていないわけであります。そこに果たして、5万円とか10万円の給付をすることはどうなんだという点を考えなければならない」
首相の発言らしいが、何千万も給与をもらっている人への10万と、年収100万円以下になろうとしている人たちへの10万円を、一緒くたにするこのズレは、そしてそれを答弁で言っちゃうっていう配慮のなさは、いったい何なんだろうかと思う。
もう、ず~~っと以前から分かってはいたけれど、本当に、日本の政府の人々は、別の惑星に住んでいる人たちなんだ。
自分はこの状況の中、たまたま自国ではなく、ドイツと言う国に仮住まいの身であったから、こんな「仕事は減ったけど、とりあえず生きていける」という、いやむしろ「フルタイムで働いてないのに生きていける」という、ある意味贅沢な境遇にあるのだけれど、それはなんて幸運なことだったのか、と思わずにいられない。
もし自分が今、日本にいたとしたら、どうなっていたことか。
これで日本の国民が、本当に「これって、おかしいよね?」ということに気づいて、何かしら行動を起こさなければ、日本という国の未来がよりよく変わっていくことは、もはやないような気がする。
ガイコクにいる私が、何ができるかというと、多分、何もできないんだけれど。
私自身、日本にいたころ原発問題に関わり、一時期仲間たちと行動を起こしたこともあったけれど、日本という国の中で、声を挙げるということの難しさ、何かを変えようとする時に立ちはだかる障壁は、その時いやというほど経験させられた。
正直、「結局、何をやっても無駄」と思って諦めたのも事実。
だけど、もう一度、これはチャンスなのかもしれない。
国民をバカにするな、と、声を挙げることを、日本人はやらなきゃいけない。
議論することが苦手な、というか、議論することを教えられない教育制度の下で育った日本人にとって、それは大きなチャレンジかもしれないけれど、このままでも仕方ないか、と、簡単に諦めないで欲しいと思う。
税金は、働いた人が国に預けたもの。その税金を、納めた人のために使わないというシステムを傍観していいのか?
私は数年間ドイツで仕事をして、それはそんな大した仕事ではないかもしれないけれど、ドイツの国にわずかばかりの税金を納めてきた。
だから今、困った時には補償を受けられているし、ドイツ国民も皆、それを当たり前の権利として享受する。
もちろん、おかしいぞ、そのドイツの補償の規定!と思うことも、あるにはあった。
例えば、休職保険だと、半年後は給与の100%が60~70%に減らされる。仕事をしなくても、交通費以外の支出が減るわけではないので、それじゃあ生活できない!といった類の。
それでも、私のような子持ちシングルマザーであれば、税率が引き下げられたり、子ども手当だって日本に比べれば破格だし、ベルリン市内、子どもは無料で公共交通機関を利用できるので、出費は限りなく抑えることができる。
また、社会人は基本、日本のように、病気でも無理して仕事をするなんていうメンタリティーではないので、(中には一部、そんな人もいるけれど)具合が悪ければ「今日は調子が悪いので休みます!」の報告で、給与は補償され、自宅療養が許される社会だ。
それがいいのか、と言われれば、正直、イエスと言えない部分も多々ある。
私は生粋の日本人だから、日本で仕事をしていた時は、「今親になにか起こっても、現場を外せない!」ぐらいの覚悟で働いていた。
だから、「ちょっと具合悪いんで、今日休みます」が日々勃発する職場なんかは、かる~くストレスだし、「いやもう、今週は40時間以上も働いてるよ」なんて若い男子のセリフを耳にすると、
「いや日本じゃ女の私だって、週70時間越えとか、普通だったけど?」と言いたくなるのを、いかんいかん、日本の常識はここでは非常識、と、呑み込まなくてはいけない。
そしてさらに、ドイツは社会保障が日本に比べると機能しているけれど、その分税金だって高いし、被雇用者の権利が守られすぎて、自分が雇う側だったら、だいぶめんどくさいな、と思うような細かい取り決めだって色々ある。
従業員をちょっとでもオーバーワークさせ、それが通告されると、役所からの検査が入って勧告が与えられたりとか、勤務時間に対しての休憩時間も決まっているので、「今いそがしいんで、休憩なくてもいいんで~」なんて言っても、上司から「いや、決まりだから30分かならず休んで!」と、無理やり現場から離れさせられたりもする。
従業員は自分の権利を主張して当然というスタンスだから、上司の顔色をうかがって、とか、同僚に気兼ねして、とか、そんな日本人の感覚で仕事をしていたら損をするだけで、むしろ逆に嫌がられることだってある。
だからドイツが100%いいとか、日本が100%間違っているとか、そういうことではないのだけれど、ただ日本とドイツの働き方を比較すると、日本人、こんなに真面目に働くだけ働いて、大変な時に国に守ってもらえないなんて、ひどいじゃないか、と憤りを感じずにはいられないのだ。
マスク2枚でいいの?
いや、マスク2枚を受け取ることで、失うものについてみんな納得しているの?
マスク2枚の配布に、当初は200億以上の税金がつぎ込まれると言っていたのが、いまや400億円超えと。
こんな莫大な金額が、いったいどこに流れていくのか、政府はきちんと説明できるのだろうか?(できないだろうね。)
みんな、本当にいいの?400億円の税金をマスクで消費しても???
時折、日本の補償についてやマスクの話で思わず感情の振れが大きくなることもあるけれど、基本的には今、自分は時間に追われず、前述したような、淡々とした隔離生活を送っている。
人生の中で、こんな風に、自分が考えていることをつぶやけるくらいの時間に余裕がある期間なんて、そうそうあるものではない。ある意味、贅沢な長期休暇をもらっているかのようだ。
日々娘と二人で家にこもっていると、ひと月前まではお互い忙しくてすれ違いになっていた時間にはできなかった、他愛のないやり取りや、近所への買い物が、ものすごく新鮮に感じられる。
ほとんど二人っきりの世界は、なんだかとても平和で、楽しい。
となりで朝食を食べる娘の横顔をじ~っと恋人のように見つめて、「ママ、恐いよなんか・・・」と言われても、今まで会えなかった時間を取り戻しているような、自分に経験はないけれど、遠距離だった恋人に「会えて嬉しい!!」アピールをするのはこんな感じだろうか、なんて思いながら過ごす時間の幸せ。
もちろん今この時も、会社の今後や減収の補填について、頭を抱えている人たちがたくさんいることも知っている。
大切な人を、コロナウイルスのせいで失ってしまった人たちのことを考えると、やるせない気持ちになる。
でも今自分には、こんな時間が与えられ、死なずに生かされていることを感謝して、娘が健康であることを感謝して、いつか自分にもやってくる、終わりの時までにやらなくてはいけないことを、きちんと終わらせる、その準備をしなくてはいけないんだと、そんな風にも感じながら、日々を過ごしている。
生きるって、何の意味があるんだろうと、これまで何度も思ってきた。
ものすごく、人としても素晴らしく、大好きだった友人が亡くなった時、自分じゃなくて、彼女が死ななくてはいけなかった理由を考えた。
でも、そんなことは分かるわけがない。
はっきりしているのは、まだ自分は生きている、ということだけ。
生まれることがスタートなら、死ぬことは、一つのゴールだともいえる。
ゴールにたどり着くまで、自分はやるべきことを終わらされるのかな、と今また、死ぬまでにやるべきことについて考え始めている。
残された時間は誰にも分からない。
だから、日々悔いなく生きることは大事だと、頭では分かっていても、1日の終わりに、やり残した単純なタスクの多さに反省することの繰り返しだったする。
でもちょっとだけ、分かった事もあるような気がする。
生きていて、幸せや喜びを感じる瞬間がどれだけ貴重なのかということを、この隔離生活の中で、今また気づかされたから。
そして、何が自分にその感情を体験させるのかが、もっと良く理解できたような気がするから。
貴重な夏日を、外で過ごせない代わりに、得たものもある。
だから、この時間が与えられたことに感謝して、死ぬまで、生き抜こうと思う。
もしサポートいただけたら、今後の継続のための糧にさせていただき、面白いと思っていただける記事をかけるよう、さらに頑張ります。