残り5日… 坂田賢亮
皆さんお久しぶりです。だいぶ久しぶりにnoteを書きますM2の坂田賢亮です!
前回書いたのが今年の3月だったので、すでに半年以上も時が経っていて軽く引いていますが、島原前最後のnoteを自分が書くことができるのは少し運命を感じ嬉しく思っています。
これを書いたときは、故障中だったなぁ…
さて、ここからは本題へ…
今週の練習の振り返り
11/20(月) 16000m PR 4'00/km
11/21(火) 10km jog
11/22(水) 2000m-5000m1000m 3'10/km-3'20/km-free (途中で垂れた)
11/23(木) 14.6km jog
11/24(金) 10km jog
11/25(土) 熊本県中長距離記録会 5000m 15'20
11/26(日) free (QOLの高い1日でした)
試合の調整は特に意識することなく、駅伝前の最後の追い込みを意識して臨んだ水曜日の練習で垂れて、それを若干引きずって試合に臨み、可もなく不可もない結果で終わりました。ここからは上手く疲労を抜きながらベストな形で島原に乗り込こもうと思っています!
島原駅伝とは
さて、ここからは蛇足なのですが、せっかくなのでこれまで経験してきた6年間の島原駅伝の思い出やエピソードにつて語っていこうと思います。
気が向いた人がいれば是非読んでみてください(笑)
1年生
高校まで800mを専門にしていた私にとって、5000mをトラックで走るなんてこと自体が長すぎる苦行という認識で、駅伝でメンバーになり走れるなんてイメージを持つことすらおこがましいくらいでした。
(4,5月は練習で6㎞ 4'00/km ペースで走れなかった&同期は5月の全日本大学駅伝予選会に出場したりと大きく差を開けられている状態)
しかし、夏場の合宿を乗り越え、10月には5000mで16'11"01をたたき出し1年生の中では持ちタイムNo.1かつチーム内7位という成績を残し、駅伝2カ月前にして急遽、メンバーになれる希望が出てきました!
しかし、現実はそう甘くはなかったのです。
選考レースは現在と変わらず、えがすた外周を4周で、5㎞以上の距離かつコースの起伏でバテていまい、チーム内8位でゴール。7位の先輩とも1分以上差が開き、大きな力の差を感じました。
その後、7位だった先輩がjogで膝を強打し、駅伝を走るか走らないか論争を巻き起こしたりと駅伝までもひと悶着あったのですが、詳細は割愛します(笑)
さて、この年の島原駅伝はどうだったのかと言うと6位で全日本大学駅伝予選会の出場権を獲得しました!
1区、2区、3区と思うように流れに乗りきれなかった中で、4区の今やレジェンド(当時は変態として有名)古川さんが区間賞の走りで熊大を6位圏内まで追い上げ、生田さんが差を広げ、6区終了時点で3位で走っていました。そして、最後のアンカー7区で当時の長ブロ長である井田さんが走ります。ラストで九州国際大学に追いつかれそうになりながら、ギリギリでかわしての6位でのゴール。ゴール後はみんな号泣で、最も感動した駅伝のゴールの瞬間でした。
しかし、私は、この駅伝を見てメンバーに選ばれて走れなかった悔しさとこれまで精一杯の練習をしてこれなかった不甲斐なさを大きく通関した瞬間でもありました。
2年生
1学年進級し、後輩ができてプレッシャーが大きくなったのを覚えています。特に印象に強いのは高群勇也の存在です。
寡黙な彼が大学の練習に参加したのは、まだ春休みの時期でした。練習1日目から普通にポイント練習に参加し、12000m PR(3'40/km)を走りきっただけでなく、ラスト1週を60s切りで走り終えたときの衝撃的でした。(ちなみに私はこの練習でしっかり垂れてます💦)
そんな彼を含めた3人の新入生と共に夏合宿をなどを経て島原駅伝に臨んでいく事になります。そんな中私は、練習量は増えつつも、ケアを怠っていたため9月から故障を繰り返し、あまりベストな状態で試合に臨むことができませんでした。そのため、駅伝専攻会までに順調に成長をした勇也とは異なり、昨年のベスト近くのタイムを出すことなく選考会に臨みました。
当時の選考会の結果です。まずは高群の23分台に驚きが隠せませんが、私は、同期の谷口に中盤で離され、勝つことができず駅伝を走ることができませんでした。1年を通して常に島原駅伝を走ることを念頭にjogの距離を増やしたり、陸上競技自体を真剣に考える時間が増えた1年だったのですが、故障もあり選考会直前の谷口の想いの強さに圧倒されてしまった選考会であったと、今振り返ると思います。(このとき、玉名の実家まで走って帰るという贖罪イベント発生)
そして、失意の中での駅伝1週間前の記録会(かの有名な垂れたなぁ大会)で5000mの自己ベスト 16'06.95を出し、谷口にも勝利するも、時すでに遅し、タイムが出た嬉しさより選考会でなぜ負けてしまったのかの悔しさが思い出されます。
さて、この年の島原駅伝の結果についてですが、総合10位とエース古川先輩の裏切り(笑)の中で健闘した試合でした。
内容としては、1区、2区は昨年同様、少し波に乗りきれない中でのレースでしたが、3区野田さんのM2の意地の走りで区間3位と好レースを魅せ、その後5区の生田さんも昨年を上回るタイムで後続を引き離し、7区に渡った時点で9位でした。しかし、アンカー7区の谷口最後の最後でコースを間違え、その隙に沖縄国際にスパートを仕掛けられて最後に抜かれて終わるという結果でした。
この結果を受け何故、自分は駅伝を走ることができなかったのかと昨年以上の悔しさと後悔をし、来年こそはただ走るのではなく、幹部として駅伝の主力になると決意を胸に固めました。
3年生
3年生となり、幹部として部を引っ張る学年となりました。この年は、主力であった先輩方の殆どが卒業され、かつ幹部の5000mのタイムの最速が自分であるという、自分達が見てきた幹部の中でも最も力の無い世代であると自覚していました。そのため、これまでの長ブロとは異なる新たな成長曲線を描いていく必要があると考え、幹部全員のチームワークを活かして頑張っていこうと考えていました。そんな矢先の2月の後半にコロナウイルスの感染拡大と活動自粛の波がやってきました。初めは新学期が始まればこれまで通りの部活と遠征が行えると高をくくっていましたが、考えが甘く、4月、5月、6月と全く部活を再開できる兆しが見えてきませんでした。もちろん昨年の悔しさから2年生のころとは比べられないくらい自主練習を行っていましたが、(1,2年生のころは週6の部活+週2回の朝練など自主練を行うのはテスト期間とかだけだった)やはり目標とする大会がない分、部員全体の活気は目に見えて落ち、暗中模索の状況が続きました。
実際、部活を1次再開できたのは7月に入ってからでした。さらに、県選の開催もあり、ようやく試合に出場できるとモチベーションを上げ、練習に身が入るようになってきました。
しかし、試合まで2週間ちょっとと期間も短く、練習量も十分に足りずに走った1500mでは、4'25"07と組で最下位かつ大学ワーストタイムをたたき出しました(今年の秋インのタイムより遅いw)。 恐らくこの年に入学した益永はさぞ熊大陸上部の将来に不安を覚えた事でしょう。(コロナ禍に兵庫県800mチャンプが入部してくるなんてビックリでしたw)
そこから、昨年の後悔を思い出し、改めて1から距離を踏みなおし、自主練を続けた結果、(どのような取り組みを行ってきたかは過去に話したことがあると思うので割愛、気になる人は追いコンのときにでも乾杯しに来てください(笑))11月にはなんと5000mで15'21"74と大幅なベストの更新をすることができました!(結局、幹部の皆で力を合わせてなにかを成し遂げる事は出来なかった…)
このレースをきっかけに自信もつき陸上競技力が大幅に向上した1年ではありましたが、残念ながら島原駅伝は開催されませんでした。もし、この年に島原駅伝があればどのような結果となっていたのか残念でたまりません。
4年生
ある意味、幹部としてのプレッシャーの肩の荷もおりて自由に競技を行うことの出来る時期となりました。しかし、私は院に行くことと、就職することの2つの選択肢も最後まで考えていたため、練習よりも先に学業、就活を重視する期間+コロナ禍の尾を引いて中々全体で練習をする機会にも恵まれませんでした。そのため、結局この年はトラックでベストは初めて更新することの無い年となりました。
思い出の写真も全くないw
しかし、島原駅伝だけはありました!
ただ、練習は決して充実しているとは言いづらく、メンバーも過去の駅伝に比べると不安の残る状況です。実際、選考レースでも過去2年と比べて大きく力の劣る結果となりました。
そんな中でも、やはり島原駅伝は特別な試合であったし、本番は感動をする試合でした。
始めて走る島原駅伝で私は、1区を担当しました。1区は、下り上りのあるクセが強いコースです。また、現地での応援は自粛のムードもあり沿道での応援は少なく、少し物寂しい雰囲気を感じながらのレースでした。
序盤の下り坂が終わってから強い向かい風の中で集団の前方につき比較的に余裕をもって走っていましたが、後半の上りで離され、その後ラップを落とさないように我慢をする苦しい展開でした。その中で限界以上の走りができたのはやはり駅伝だったからだと思います。結果としては、区間10位でタスキを渡しました。自分の中では前方との差の大きく離されることがなく良いレースであったと振り返っています。その後、後半苦しい展開もありましたが、6区、7区で追い上げを魅せ、10位でゴールすることができました。このときの7区の翔太のゴールは1年生のころの井田さんを彷彿とさせる限界を超えた走りを見せてもらいました。ありがとう翔太。
その後、野田さんからいただいた電話で一人泣いたのは秘密です(笑)
このように4年生の1年間は、トラックこそ満足はいかなかったものの、駅伝を思うように走ることができ、満足のいく1年となりました。
M1(修士1年)
さて、ここまでくるとだいぶ最近のお話になってきますね(笑)
修士1年のころを振り返ると、就活+部活の1年でした。
3,4年の就活の経験から準備は早めにやっておくと何かと楽であるという教訓を得ていたので、就活開始は5月のGWくらいから始めていました。
さらに、ようやくまともに部活の活動が再開され、週2回のポイント練習を行うサイクルが復活しました。
この2つのサイクルが初めの方は全くハマらず、ポイント練習で外しまくったり、安定した練習を行えていない状況がチラホラありました。
しかし、夏場インターンに参加したりしつつも、練習にも慣れ、秋インでは1500m、800mでベストを更新し、その勢いで5000mも15'18"69までベストを更新することができました!
また、チームの状況としても自身が大学にいる間に初の上位7人の5000mのタイムが15台と過去最高のアベレージのチームになることができました!
しかし、ここから上手くいきませんでした。10月に入り、早期選考の面接がはじまり、企業研究や自己分析、さらに大学の研究に忙殺され、その中で練習を行ってきた結果、自分が思っている以上にメンタルにガタがきていました。その結果、パフォーマンスが落ちていき悪循環にみまわれてしまいました。駅伝当日も昨年のようなワクワク感はなく、不安とプレッシャーの方が大きいと最上級生としての余裕は全くなかったです。
結果、駅伝では昨年と同じく1区を走ったのですが、30秒以上もタイムを落とし、流れを作ることが全くできませんでした。(M1のときの野田さんと全く同じタイムだったのは少し運命を感じた)
しかし、2区の颯太が挽回の兆しを魅せ、3区、4区と勇也、麗央がつなぎ、5区、6区で前が見えるギリギリの位置までもっていき、最後7区の貴司が逆転の走りで10位に入ることができました!
余りにも不甲斐ない走りと結果で今一度Lv.Upを胸に誓ったのを覚えています。
今年はどうだろう?
さて、今年の熊本大学はどのようなチームでしょうか?
私のタイム 15’01"37 がチーム内で4番手(年々、チームでの序列を下げいるのは不甲斐ない…)と過去にみてもここまで強いチームとなった熊大は初かもしれません。(絶対的エース 古川さんのような方はいませんが、)
私自身、もう一度1年生のころのように島原駅伝で6位入賞を目指せるチームができるとは夢にも思っていませんでした。ここまで、チームを引っ張て来た麗央を中心とする長ブロ幹部には感謝しかありません。また、4年生ながら、もはや2年生な颯太の支えなしには今年のチームは完成しなかったでしょう。
今年の駅伝が走る選手、走れない選手にとってどのような駅伝に写るかはまだ分かりませんが、一人でも多く人に駅伝を走りたい、この駅伝があったから…といつの日か思い出してくれる人がいるものにしたいと思い、全力で走らせていただきます。
最後になりますが、人生でここまで時間をかけ全力を尽くしてきた集大成を駅伝にぶつけたいと思いますので、チーム熊大の応援のほどよろしくお願いいたします。
最後まで読んでいただきありがとうございました!