「未来は変えられる」と言うが
「過去は変えられないけど未来は変えられる」
という月並みなセリフを聞くたびに
「当たり前では?」
と思ってしまう。
どれだけ展開がアツかったとしても気になってしまうのだ。
「過去は変えられない」
これはその通りだろう。
過去は起こってしまった結果だ。
数学の式のイコールの後ろを書き上げた後。
丸つけの終わった答案用紙。
それまでの過程が結果として繁栄されたものであるため変えることはできない。
「未来は変えられる」
この点に関して、文句があるわけではない。
ただ、当たり前なのでないかと思ってしまうのだ。
未来は今、この瞬間の行動の積み重ねの結果だ。
今は計算中であり、イコール後は空欄になっている。
例えば、これを書いている瞬間にも未来は変わっている。
私はこの文章を仕事の合間にリフレッシュの一環として書いている。
この文章を書き上げた後、私はスッキリした気持ちになるだろうが、本来やるべきはずの仕事は進んでいない。
この文章を書くことを今すぐに止め、仕事を再開すれば定時前に仕事を完遂し、いつもより2本早い電車に乗り、ちょっと凝った料理を作る時間を確保できるかもしれない。
ただい、その場合はこの文章を書き上げた後に得られる可能性のあるスッキリとした感覚を得ることはないだろう。
未来は「変えられる」のではなく「ある程度選べる」という表現の方が個人的にはしっくりする。
この文章を書き上げてスッキリするがいつもくらいの時間に帰り、パパっと作れる料理を腹に収めるか。
仕事をすぐに終わらせ定時に帰り、ちょっと凝った料理に舌鼓するか。
このように自分行動の影響範囲内であれば未来は選ぶ(変える)ことができる。
「ある程度」というのは、人生には外的要因が多いからだ。
文章を書くために時間を使ったとしても、雪が酷いからと早く帰ることができるかもしれない。
どれだけ仕事を早く切り上げることができたとしても、乗っている電車が人身事故の影響を受けるかもしれない。
様々な予測不能な要因がある以上、未来が確定することは無い。
つまり「変えられる=ある程度選べる」と自分の中で変換すればなんてことなく物語にのめり込むことが出来そうだ。
…と、ここまで書いて思ったが、選べるというのはちょっと傲慢な考えかもしれない。
傲慢というか恵まれている発想なのかもしれない。
自身の行動の影響範囲内だとしても、それ以上に外的要因の方が強ければ、選ぶ未来は減る。
私が勤めているのがブラック企業であった場合、この文章に時間を使おうが使わなかろうが、帰る電車は終電か始発になることだろう。