魔法の言葉
私は『才能』という言葉があまり好きではない。
好きな人の方が少ないのではないかとすら思っている。
なぜなら、私の中で『才能』という言葉は諦めるときに使う認識だからだ。
「自分には才能が無い」
「あの人にはとてつもない才能がある」
そうやって自分のやりたいことから逃げる人を見てきたし、自分もそうやって逃げた実績もある。
人はきっと何か理由がないと何かを諦めることができない生き物なのだろう。
というかそうでもしないと心が耐えられないのではないだろうか。
好きなことや自分の頑張りたいことに取り組むのは、非常に熱量や体力のいることだし、どこかで限界を感じることもあるだろう。
そんな好きなことや自分の頑張りたいことの限界を自分で決めて逃げることに、ある程度”心の平穏”を保つ効果があるのは実体験済みだ。
ただ、諦めるのにも自分なりの論理というものが必要だ。
そんな時に便利なのが『才能』というあやふやでとてつもなく大きな存在に感じられる未確認の存在だ。
『才能』は周囲の人間から認識されることによってようやく存在することも自覚することも許される存在だ。
そんなあやふやなものを”諦める論理”に使うこと自体がナンセンスに感じられるが、むしろ魔法にかけられたように諦めることができるようになる。
『才能』という言葉が存在するか否かを自分か他人かに設定する(もしくはされる)ことによって存在しない巨大な壁が魔法のように作れてしまう。
その壁は『才能』の有無で超えることを許されるか決まる。
「才能の無い自分には、こんな巨大な壁を越えることはできない。だから諦めよう」
こんな簡単な論理でも”心の平穏”を保つために必要なものなのだから人間とは本当に”心の生き物”だなと思う。
しかし、この『才能』という言葉は魔法の言葉である。
マイナスに作用することの方が多く感じられるが、プラスに作用することも当然ある。
(マイナスに作用することの方が多く感じるのは、我々日本人が謙虚過ぎるからなのかもしれない)
「君、才能あるね」
こんなお世辞とも取れる言葉でも、人の自信を活性化させ顔を上げさせ実力以上のことを発揮させることさえある。
要は『才能』という言葉は毒にも薬にもなる魔法の言葉だということ。
そんな当たり前のことをつらつらと書きなぐる私に才能はあるのだろうか…?