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【HP記事】 市民のネットワーク犯罪に対し社会合意が必要/250209日




ネットワーク犯罪は解決ルールに見直しが必要

現代は、従来の法的手続きや報道基準では対応不可能な、脱法犯罪・人権侵害が生まれる時代です。問題には対応するという原則を考えるなら、〝従来のルール〟を見直さなければならないはずですが、現実はそうなってはいません。


ネットワーク犯罪は高難度の新・民衆犯罪

ここでいう脱法犯罪や脱法人権侵害とは、具体的には特殊詐欺などのネットワーク犯罪を指します。他には闇バイト、痴漢・盗撮コミュニティ、集団炎上行為、そして当HPで取り扱う不特定多数による組織的な嫌がらせも含まれます。

これら市民関与のネットワーク犯罪は、個人携帯の普及によって生まれました。水面下のつながりや不特定多数という形態による「不可視化性」「脱法性」、即時の連携が生む「機動性」「増幅性」、仲間へのアピールや加害依存による「無限進化」、一市民を標的にする「局所性」「嗜虐性」が特徴です。


新・民衆犯罪は裁判も報道もむつかしい

これら一連のネットワーク犯罪は、被害者や加害者は見えにくいため認知や摘発が難しい状況です。また事件が発覚しても、脱法手法の進化共有が進んでいることから、裁判にしにくかったり、報道の裏どりが難しかったりします。

そのため、ネットワーク犯罪の種類によっては、標的となった個人が救済に全くあずかれない状況が発生しています。その最たる例が、集団炎上行為や、集 ス トと呼ばれる苛烈な個人いじめです。


ネットワーク犯罪を想定していない解決ルール

個人携帯以前の時代には、犯罪やいじめにおいて、一般市民が匿名のまま組織化することや、組織の枠を超えた連携は想定されていませんでした。現在の社会的手続きや報道の基準は、携帯以前の時代の内容です。現代の犯罪文化の変容に適応していません。


旧来のルールは案件の拾い上げにおいても問題があります。加害ネットワークが不可視化、被害がビンポイント、グレーな手法と悪条件が重なった場合、認知には加害者や被害者の証言気概に手がかりがなく、事件が埋没しやすい。また全て裏どりが取れることはなく、状況証拠を積み重ねて推測するしかない場合も発生します。

これが法的手続きや報道と相性が悪いのです。従来のように、記者会見や裁判など公的事実のみを、社会認知や報道の基準にすると、前時代と比較にならない破壊力の攻撃が見過ごされてしまう可能性が出てくるのです。


ルール絶対視の弊害

また場合によっては、この従来の〝ルール〟が、被害者を封じ込めたり負担を増やす逆転現象が生じます。特にS ス ト案件では顕著です。私の5年以上に及ぶ相談周知活動からいうと、この状況変化とルールの不適合は、救済役の公職で、あまり問題だと認識されていないようです。

人のためにルールが存在しているのに、問題解決や救済を主眼におかず、前時代からのルール遵守を優先している。そんな雰囲気
をしばしば感じます。


不作為の理由に〝ルール〟を持ち出してよいのか

また地域の人間関係が泥沼化することもあるS ス ト案件では、軋轢を嫌う立場から、"ルール〟を動かない理由に持ち出す状況すら発生しています。


実際日本社会は、コンプライアンスを気にするあまり自主規制が強いとの指摘もあります。

日本企業のコンプライアンスが規則ずくめで時間を食う割には機能していないのも、社外取締役制度が存在する企業で実際には人の支配が横行しているのも、ただ「かたち」だけをまねて、それらを採用した「目的、動機」について、また、その「意味、機能」についての考察がお留守になっているからではないだろうか。

現代ビジネス 2025.02.01
なぜ日本には「本当に無意味な規則」が存在しているのか?…いまだに存在する日本の「過去の亡霊」
瀬木 比呂志


〝自縄自縛の思考法の憂鬱さの最たる例が「コンプラ」だろう。法律や社会規範などコンプライアンスを守ることの重要性は言うまでもない。だが、日本のコンプラリスクのヘッジは度が過ぎている〟
〝政治家や圧力団体などを通じた規制緩和の外圧を含め、ルールや「土俵の作り方」をめぐる発想で、日本はもっと柔軟になっても良いのではないか。
 人間のためにコンプラがあるのであって、コンプラが人間より優先されるのは本末転倒だ〟

「日本企業のコンプラ」と「外資のコンプラ」聞いて納得の決定的な違い
高井宏章: 経済コラムニスト
ダイヤモンド・オンライン 2024年11月4日 




被害者に負いきれない荷を背負わせていないか

加害者は狡猾。一方逃げられない当事者は対応策を見つけサバイブするしかありません。現在S ス ト被害は社会現象として公に認知されない境遇にあります。


悪戦苦闘の最中に、きれいな立場から、やり方がどうだなどと文句だけを言い、動かない理由とする。そのことが、背負いきれない負担を当事者に課し、追い込んでいないか、考えていただきたいのです。


集団嫌がらせ案件は、加害者個々人が責任から逃逃れられる一方、告発封じ込めまで行き届いた最悪の完成形となっています。加害側は成功体験を積み、奢ります。また低リスクから小中学生も含めた参加者が絶えません。


想定しない犯罪が起きて対応が後手後手にまわっている状況で、従来の立場を金科玉条のごとく守る態度に、妥当性があるのでしょうか。


裁きにくい相手をどう扱うか社会合意が必要

現代はよくない目的で市民が大規模ネットワーク化した際の対応について、まだ社会的合意を見出してはいません。当案件でも、加害者が市民集団であることへのストレスや迎合から、告発行為ばかり焦点化したり、大多数の利益を持ち出す人が出ました。本来中心に据えるべき救済や抑止、加害責任が議論とならないのです。


市民が群衆化し過激主義に陥るのは、現代の社会現象の典型のひとつです。S ス ト案件もこのカテゴリーに入ります。


加害者多数。被害者は個人。加害者は一般市民という構図は、どうも社会だけでなく救済役の行政や公的職業もひるませているようです。


司法も、行政も、メディアも、アカデミアも同様です。普段は保護救済される側である市民が加害者となった時、それにどう対処するかという問題に、いまだ正面から向き合った議論がなされていない。これが現状なのです。


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