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余白とクリーン【コメント欄再考】
さて、前回の続きのような話をまたします。
書きながら途中で薄々わかっていたんですけどね。
「あ、これコメント欄に関わらない話だな」
って思ったのです。
これは、私が人と関わる時に意識してることと、あんまり変わんないかもなと思いました。
前回の補足的な内容を今回も書いてみます。
1.クリーンにしたい?実はノイズでもない。
コメント欄。
多様性にあふれた場にしたいんです。
多様性とかっていうと「ああ、またそれ?」「口で言ってるだけでしょ」「聞き飽きたよ」みたいなことを思われるかと思いますが、いやいや……これを読んでくださっている方はそのように思わない方が多いと勝手に信じていますが。
潔癖にしたくないんです。
クリーンにしすぎない。
ごちゃごちゃっとしていてほしい。
抽象的すぎて、伝わらないと思うのでもっと具体的に書いていきます。
私は、私とあなたは違う人間だと思っています。
めっちゃ当たり前のことを言っていて、かえってなんだか楽しくなってきてるんですが、でも当たり前だけど確認しておきたい。
私とあなたは違うんです。
そして私の思っていることが100%伝わるとも思っていません。
これは世界に諦めているとかそういうことでもなく、事実そうなんです。
私の中ではね。
それで、書いたことに対してコメントを返してくださるというのは、私の記事の中で、何かどこかしら響いたものがあって、振動しているからこそ「コメントを書く」というアクションに移るわけです。たぶん。
思わず行動する。
もうなんかそれだけで感謝。
なんですよね。
私。
だからありがたいなぁと思っている。
私という存在を認識してくださっているしあわせ。
そして記事は、もうここに出した時点で自分じゃないんです。自分だけど、自分ではないものになってる。ここに置いてある限りは、相手に何が響いているのか、どこで共鳴しているのか、ざわざわしているのか、心を持ち寄りたいのか、そこで得られた感覚や思いはその人のものであって、自由であってほしいと願っている。
だから「解釈が違う」「そんなことじゃない」っていうのはなくて……正解とか正しいとかっていうのもないと思います。
前回は「ノイズ」の話も出ましたが、ノイズと捉えるかは自分次第なところもあって、私の記事が示していることとどんなにコメントの内容がずれていたとしても私は「ノイズ」とは思っていないんです。
そこが大事なところで。
ずれているからこそ、得られるものが大きいんです。
例えばですね。
私が自分で気づいていない領域を体験として重ねている方が、気づきを得るようなコメントをふわりとしてくださったりすることも結構あったりして。
そういう時、私はその人に旅に連れて行ってもらっているような感覚になります。
「へえ〜こんな景色あったんだぁ」と。
あと、もう一つ。
たとえば「くまさんって〜こうなんですね」みたいな内容が書かれていたとしたら、そこに対して「うーんそうではないかもしれない」と仮に思った時に、「そうか、そんなふうに捉えているんだ」と伝え方を若干反省したり、「そんな自分であったのか」という新たな発見が得られたりしますが、私はまた「私はこう考えています」と違う言い方で伝えるようにはしています。それが伝わらなくても最終的にはいいっちゃいいんです。
これをやることで、私は私がこうであるとか、こんな考えを持っているというのをまた説明できます。そしてそれによって、自分を深掘りする機会が増えているかもしれない。
人間は自分だけだと自分ってものが案外わからない。
他者がいて、はじめて自分の形がわかるんです。
そして、こんな繰り返しが何に繋がるかというと
自分の思考の可動域が広がったり
もっと自分の思考が明瞭になったりする
かもしれないんです。
ずれて、あわさっている。
自分のためになっています。
結局自分のためかい!ってことなんですけど、まあそんな側面があるという話でした。
クリーンにはしたくない。
ごちゃごちゃっとしましょうよ。
そんな希望をコメント欄に抱いています。
そして、願わくばオフラインでも望んでいることでもあるのです。
2.余白と自由を作る
だからというわけでもないのですが、私は自分の記事の文章に余白を残しておきたいのです。
具体的に言うと、あまり結論めいたものは書きたくない。
「だからこれはこうなんです」
と、はっきり言いたくない。
それを最も体現している代表格は「俳句」とか「短歌」だと思っています。
もう景色しか書かないじゃないですか。ほとんど。そこから立ち上がる感情を私たちは風景から連想している。否が応でも情景が滲み出て迫ってくる。
余白を作ると、解釈が広がります。
読んだ人それぞれが想像で補うからです。
そして、1の話に繋がります。
クリーンにすることとか
ノイズだと思うことは
自分の中で線を引いている状態です。
もっというと
これは自分にとって有益か
そうじゃないかというジャッジをしているわけです。
あるいは心地よいか
そうじゃないか。
そしてそうじゃないものは排除したくなる。
当然です。
でもね、その考えが行き過ぎると
極端ではあるけども、人は独裁者になります。
私はそう思っていて。私は独裁国家を作りたいわけでもないし、王様にもなりたくないんです。
なるべくフラットに、対等にありたい。
私は、日々現代社会で生きていて、効率性、生産性を求められすぎていることが、窮屈で仕方ない場面があります。
ここで答えを出さずに
ただ、思いを置いておくことが
かなり人によっては無駄であったり寄り道である印象を受けるかもしれませんが、私にはそれがむしろ必要だと思っている。
ここは上も下もないんです。
横に並べておきたいだけ。
だから、あえて空気を読まずに
私は自由にコメントやお返事をしています。
相手がどんな立場であろうとも、どんな人生を送っていても。
その方に対して思ったことを書きたいなと思います。
私がまず自由でいないと、周りも自由に振る舞えないかもしれませんしね。
余白と自由。
なんとかそこは維持していけたらいいなと思っています。
そして対話を積み重ねたいのです。
本日は前回に続いてコメント欄について書いてみました。
最初に書いたように、これはもしかして普段のコミュニケーションでも意識していることかもしれません。
もちろんコメントがなくても嬉しいのです。
読んでくださっているあなたに対して、私はいつも感謝しています。
読んでいただきありがとうございました。
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