「ただしさ」についての備忘録
この対談を、昨日急ぎ足で聞いた。
(アーカイブ配信が昨日で終わりだったため)
私は
正しい
ということばが
近年
もっとも苦手になってしまっている。
さらに言えば
正しさを押し出してくる人が
苦手なのかもしれない。
けれどもそんな
「正しい」とも
私なりに何とか
つきあっていけないかなぁと
悩んでいたので
このイベントを視聴してみた。
「公正を乗りこなす」という本を書いた朱喜哲さんのことは初めて知った。(拝聴してみて頭のいい方なんだろうなぁと感じた)
対談相手の岸政彦さんは「断片的なものの社会学」を拝読してから、私が心をうち抜かれてしまった社会学の先生だ。
ネコと音楽と酒をこよなく愛する生き方に、とても愛おしさを感じてしまう。
(ちなみに今回のイベントもお酒を飲まれていて、最初は「もう禁酒しようと思ってるんです」と言っていたにも関わらず途中で「酒が足りねーぞもってこい!」と言い始めたので、いいなぁ、相変わらずパンクだなぁと思った)
まずはこの「公正を乗りこなす」を読んでからだと思っている。(そうだ、本を読んでないのだ。読んでもないのに今回はイベントを聴いてみたのだ)
そして、また「正しさ」については読んだ後にじっくり考えたいなと思ってはいるのだが、昨日のイベントを視聴して覚えておきたいことをここに記しておこうと思っている。
ここからは、そんなくまの勝手なメモ書きみたいな雑な内容なので、そんなものでも良い方がいらっしゃったらお付き合いくださいな。
◾️正義の反対は悪ではない
正義の反対は「正義」であると、クレヨンしんちゃんの映画でも言っていたという話題。
私もそうだなぁと思う。お互いの正義がぶつかっているのだなと思っているので、しんちゃんはすごいなと思った。(しんちゃんの映画を見なければ)
◾️正しいということばの使いづらさ
そうなんだよ。使いづらいんだよ….ってずっと思っていた。そして、このことを私はぽろぽろとカミングアウトしてたりするのだが、今一つ「そうだよね」という反応をリアルでは全く得られていなかったので「へいへい、どうせ、私がまたおかしいんでしょ。これ。」と若干すねながら生きてきた。生きてきたが、いやぁ、やっぱり思ってる人もいるじゃん!みたいな喜びもあった。
「なぜ使いづらいのか?」についてお2人は語る。「『正しさ』を押し出したり、すごく使う人は一定数いる。その時に受ける印象がやっぱりいい感じではないから、使いにくいんじゃないかな」と話していた。
うーん。それは....私の中ではあるなと思った。正直ごめんと思うけど、そうなんだ。なんか「いい感じ」ではない。私の中では。
あと、二項対立が基本的に好きな考えではないので、まあ、そのせいだなとは思っている。
◾️加害者性をひきうけたくない人たち
「私悪くないもん」ってやつである。
周りが悪いことにしておけば、正義を振りかざすことができるからある意味楽だよねーって話。
だから私悪くないもんは楽なのである。
被害者側に立った方が楽だし、自分が加害者であることを保ちつつ生きるのは、しんどいし楽ではないということ。
そういえば謝罪論の話にもなっていたなぁ。
(この本も気になる)
◾️当事者のひとりよがりな代弁者にならないためには
岸先生が「気をつけていることは俺は2つある!」と言い出した。1つ目は「なるべく当事者側の中でも多様な声をひろう。そして同時に表現する」とのこと。例えば沖縄軍基地の問題だったら賛成派と反対派の両方を拾うようにしてるということ。
そして2つ目はたぶん語られていなかった...(ように思う)このあたりで岸先生とお酒の親和性はすでに高まっていた。
◾️正しくない語りを聞くこと
岸先生は様々な方の生活史を聞かれていて、著書もたくさん出されている。
語る人の中には「え、それって差別やん」みたいな意見とか「ジェンダー的にひっかかるなぁ」と思う意見は、語る中でもざくざく出てくる。
その語りは聞くべきであるということらしい。
私は職業柄だと思うが、普段からざくざく聴いてるよなぁ....と思った。思わずそういう時は静かになる。
◾️安心して正しくないことを言う場所が減っている?
これはSNSで例えていたが、私も以前同じような印象を受けていることをどこかで書いた気がする。鍵アカとか、特定のグループ内での発言もひょんなことから晒されてしまい、パブリックになってしまうおそろしさみたいな話をされていた。
悪い話もしたいよね。たまにはね。
(といっても何を話すかは思いつきませんが)
◾️意見を表明することについて
多様性の話も絡むなと思って聴いていた。
要するにあなたは何を思おうがそれは、いいんだと。(←ここが多様性だと思う)
そして、あなたが考えたとんでもない考えが、誰かに是正される権利はないのかもしれない。
(悪しき考えを変えろよというのは無理な話という前提で話は進んでいる)
でも、それが社会に受け入れられるかどうかはまた別の話だよねって、この本には書いてあるよねと岸先生は話していた。
それが本人にとってはまたつらい話で「他者に伝えられたもん勝ち!」みたいな。受け入れられるかカタチにしたもん勝ち!みたいな世の中になってきてるよねーって話だったと思う。
ここ、すごく私も最近気になってるところなんだよな。なんだか、そういうことでまた決まっていってしまうこわさがあるなぁと思う。
(そして、私はもしかしてそれで割と世の中を渡ってきてしまったような感覚もあるにはあるのだ)
◾️ことばにならない憤激
何かの暴力に不意に出会ってしまった人たちは、その渦中においてはその感覚や気持ちや体験を、とてもことばにできないよねって話。
じゃあ、当事者がことばにならない状態なら、そうじゃない立場の人(たとえばマイノリティ側など)ができることはなんだろう...と。
ことばを奪われてしまった人は、先ほど上で書いた「受け入れられるカタチ」にするのが、難しい。それはある感情に支配されてバランスが著しく欠かれた状態だから、だと言う。
被害者はある意味ずっと被害者であって、でもそこに留まっていると語れないこともある。
だからそこから少しでもいいから脱することができないのかなぁと話していた。
脱すること....私は仕事の中で「なんで私が」「なんで俺が」こんな障害を持つことになったんだ!という叫びを日々聞いている。
ある意味、病の被害者である人たちと接している中で、たぶん脱する方法はあると信じて仕事に取り組んでいる。と、いうか確信を持って言えるのは、その方法はある、ということだ。
◾️「正義」だからよくないのでは
正しさの表記として「正義」と書かれたりするが、だから使いにくいのでは?
だから今回の本ではあえて「公正(フェアネス)」という表記にした。
公正さというのは、天秤で釣り合いが取れた状態をイメージしている。
残酷なことが起こる現実の中でみんながハッピーは難しい。
フェアネスを目指す上で残酷さを減らすことはできないかなぁということであった。
残酷さについても、人によって何が残酷かという話も出ていた。
価値観の評価が大切かも...。
◾️合理的配慮という表記について
ここでも表記の話。
日本語だと「配慮」って書いてあるから
「え、なんか先回りして俺たちがやっとかないといけないわけ?」
「負担することが増えちゃう」
みたいな慮るが前面に出ちゃっている
損しているような印象になるが
それよりも元々の
「リーズナブルアコモデーション」
という表記だと
「しかるべき調節」
というような意味合いを持っているので
その方が誤解が少ないかもねという話であった。
さてさて
ここまで
ざっと書いてみた。
まだまだメモ書きで気になるところはたくさんあるが、まずは本を読んでみて、そしてあらためて考えてみたいと思う。
先生方がおっしゃっていたが
「学問は人を黙らせるための道具ではない」と話していた。
私は自分を助けるため
そして大切な人を助けたいために
学んだり
話を聞いたり
本を読んでいるような気もする。
ひとまず、備忘録はここまで。
※ここから追記
ああ!これ置いておくの忘れてた。
この漫画が対談で話題になっていた。
私はすごく考えさせられる内容だなと思った。
そしてこの漫画で出てくるシーンは実際に見たことある光景でもあるなと感じた。
無料で読めるので、興味のある方はどうぞ。