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愛国は高く掲げよ、祖国は踏みにじれ
まだ残暑の季節だったと思う。自民党の総裁選の真っ只中で、秋葉原で街頭演説があった。当時浪人の身でありながら、僕は友人と二人で見に行くことにした。御茶ノ水の予備校の授業の後、秋葉原に歩いて向かった。
秋葉原駅前は人ごみで溢れていた。若者の政治に対する無関心が取り沙汰される昨今ではあるが、体感的には若者のほうが多かったと思う。老若男女、まさに大衆が自民党の街宣車に注目していた。そしてそこに集う多くの人たちが、日の丸を手にしていた。きっと熱心な支持者なのだろう。
僕と友人は日の丸は持っていなかったので、とりあえず端の方に寄って演説をぼーっとながめていた。歓声で途中よく聞こえないこともあったが、逆に言えばそれほど盛り上がるということでもある。特に麻生さんが支持者向けのリップサービスを口にすれば、支持者たちは日の丸を高く掲げて振っていたのが印象的だった。なるほど、彼らにとって愛国心はあのように高く掲げるものなのだな。僕にとってはそれが不思議だった。僕にとっては愛国心は、見せびらかすように主張するものではなく自然と湧き出る素朴な感情だったから。
街頭演説が終わって、街宣車は撤収し、一つの塊になっていた巨大な聴衆も散り散りになった。僕と友人は電車の混雑を避けるために広場の端で演説の内容の振り返りをしながら少し時間を潰していた。秋葉原駅前が普段の人通りになった時、僕はあるものを見つけた。地べたに置き去りにされた日の丸だ。踏まれた痕跡もある。なるほど、彼らにとって祖国はこのように踏みにじるものだったんだな。僕にとってはそれも不思議だった。僕にとって祖国は、踏みにじる他者ではなく自己と同一の存在だったから。
僕にとって愛国心や祖国は自らの一部だ。そうであるからわざわざ主張せず、客体的にそれを意識することはない。だが僕が見た人たちにとってそうではなかったのかもしれない。彼らは日の丸という自分ではない、客体的なものを見て自らの愛国心を発揚し、時にはそれを見せびらかすものだったのかもしれない。愛国心を飾った自分が完成したから、きっと日の丸は不要になったのかもしれない。全て憶測に過ぎないが、そう感じさせる瞬間だった。
素朴な愛国心ではなく人工的な愛国心。自己と同一の祖国ではなく客体化された祖国。自分と彼らの政治に対する温度差が少し怖くなった18の秋だった。
※某政党を非難する意図で書いたnoteではありません。僕の気持ちを整理するためです。政治的なコメントは削除します。