最低の男 4

第四章 安定

 結局俺は仕事をやめなかった。今まで通り、生活のために、収入を得るために、それほど好きではない仕事を続けた。ただ俺の2LDKの高級マンションには、同居人が一人と一匹増えた。一人は結子、もう一匹はポチだ。ポチといっても、犬ではない、猫である。そっちの方が面白い、と結子が言ったので、我が家に新しくやってきたスコティッシュフィールドはポチと名付けられた。ポチは灰色と黒の縞模様の猫で、つやつやとした毛並みが特徴。ただポチと言う名前の印象とは正反対でやっぱり猫で、性格は結子と同じく自由奔放であった。俺には全く懐かなかったが、結子には懐いていたようだ。

 俺はそんな三人の共同生活が好きだった。やっと人間らしく生活できる気がした。トイレが一つしかないので取り合いになったり、味の好みが違って料理の味付けで喧嘩になったり、風呂掃除の順番なんかでいざこざはあったものの、総じて一人の時に比べれば生活に色が加わった気がしたのだ。

 ある日、結子がうちに帰るとポチがいなくなっていた。うちは高層階マンションで都会のど真ん中、ポチは基本的にうちの中だけで生活しており、外には出さないようにしていた。しかし、結子がいうには、部屋の中に入ると窓が開いていたという。逃げ出したのだ。ポチも広い世界を見たくなったのかもしれない。

 それからというもの、結子は俺にしきりに「ポチはどこかなあ」といい夜中になっても眠れないようで、ポチを探すと言って散歩に出ようとした。その度に俺は、結子が不安なので付き合ってやった。ただ、家の周りをどんなに歩いても猫どころか野良犬も何も見つからなかった。あるのはアスファルトとビルと人間と飼い犬だけだった。

 ポチがいなくなった週末、俺は結子を元気付けようと、公園に散歩に行くことにした。結子はあまり気乗りしなかったが、俺は無理矢理にでも連れ出した。外に出れば、結子の好きなハーゲンダッツのグリーンティーを買ってあげることを口実に。

 その日は、よく晴れた夏の日で、セミがうなるように鳴いていたことを覚えている。天気予報士がよく通る声で「急な夕立と落雷に注意しましょう」と言っていたが、雲ひとつない快晴の青空には、そんな気配は微塵も感じさせなかった。結子は深い麦わら帽子を被り、白のワンピースにスニーカーという格好で外に出た。彼女は元気がなかったが、改めて太陽の光の下で見る結子は世界中の誰よりも綺麗だった。もちろん俺は思っていただけで、そんなことは一言も言わなかった。いやむしろ照れて言うことができなかった。

 公園には、木々が夏を謳歌するように、その葉をめいいっぱいに色づかせ、緑という緑を主張していた。ひとしきり公園の中を歩き、帰ろうとしたその時、交差点の先で猫らしき影が通り過ぎた。

 「ポチだ!」

 結子は道路に飛び出した。その時一台の乗用車が結子に突っ込んできた。歩行者用の信号は青、乗用車の信号は垢であった。そう、乗用車の信号無視であった。

 倒れた結子の周りには、血の海ができ、白いワンピースは赤く変わった。ただ彼女の麦わら帽子は強風でどこまでも飛ばされていった。

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