「神」も「生の体験」も、扱えるんです「私」!
誤解を招く表現かもしれないけど、
言葉で例えば「事実」とか言われるのって
「私」とは関係ない。
関係あるように思い込んでるのが「私」な
わけだけど。
「私という考え」は、
「考え」を相手にすることしかできない。
(相手にしてるつもりにしかなれない。)
だけどこう書くことによって、
そうか「事実」は別のところに「ある」んだと、
「考え」てしまう。
で、
「言葉の前の生の体験」とかに変身したりする。
「神」が「思考の中」に収まってしまったように
「生の体験」は「思考の中」に、
「私」が扱えるモノに収まる。
ぶっちゃけ
生の体験でもないし、
「何も起こってない」でもないし、
「起こることが起こっただけ」でもないんだな。
だってそれ、全部、
「扱えてますやん笑」
(思考でね笑)
扱えない、わからない、ってことなのに
おかしいでしょ、扱えたら。