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モネ展に行って

モネ展に行ってきた。
大規模展示には久しく行ってなかったので、とても楽しめた。芸術に触れるのはやはりいいものだと、改めて思う。
最後に行ったのは、多分大昔のツタンカーメン展じゃないかと思う。もう凄かったという記憶以外、ほとんど残っていない。

今回の展示では一部写真撮影もOKだった。美術館での写真撮影も最近では増えているらしい。

クロード・モネを辿るような展示で、やはり代表作である庭を描いた「睡蓮」が中心であった。
僕がモネの絵画を最初に見たのは、確か美術の教科書に載っていた「睡蓮」だったと思う。昔のことで、どの「睡蓮」の絵画が載っていたのか、もう思い出せない。ただそのときに色がとにかく綺麗だと思った。
今回も同じ感想だった。
緑、青、光の感触、描き方がとても美しかった。
絵画の外に広がりを見せる絵は日本の美的感覚をリスペクトしたものらしいと書いてあったと思う。
確かに切り取られたその一幕は、それだけで終わらずに池全体を思わせる、陳腐な言葉だが雄大な絵であったと思う。
睡蓮の絵については、もはや語るまでもないだろうと思う。撮るつもりはあまりなかったが、それでも撮ってしまった写真を載せておく。

睡蓮


個人的に気に入ったのは、晩年の作品、抽象的に描かれた、あのぼやけた作品たちだった。
白内障によって色も、輪郭もわからなくなってきていたモネが描いた絵画。
これが実に美しかった。
スマホの画面でしか見たことがなかったが、あれこそが絵画だ、なんて傲慢な意見すら持ってしまった。
目がしっかり見えていた頃に、ロンドンの変わりゆく風景を描こうとして、結局思い出の中にある風景を描き出したものがあった。思い出の風景を描き出す始まりだったらしい。
それの発展が晩年の作品だったと思う。
輪郭はぼやけて、もはや何を描いているのかもわからない。他の客たちの声がちらほら聞こえてきたが、何描いてるかわからないね、と呟いていた。
思い出の中の風景画、色も形もぼやけて描かれている。視界ももはやうまく機能しない中で、庭から見た家や日本の橋などをその目で確かに見て、描いて、今現在まで残って、僕の目に映っている。
それがたまらなく嬉しい。
色も、輪郭も、何もかもがぼやけて安定しない、移り変わっていく。これはまさに人の記憶と変わらないと思った。
彼の描く自然の姿そのものだと思った。

私の絵画について論じる人々は、
私が抽象と現実に結びつく想像の極地に至った、と結論づける。
・・・だが、私の絵画を「世界の外のどこか別の世界」へと遠ざけるのは、行きすぎというものだ。
・・・作品の優雅さは、私の源であるところの自然から湧き出る賜物である。

こんな言葉をモネは残していた。
自然から湧き出た、ありのままの絵なのだと、晩年の絵を見て思った。

月並みだが、僕はきっとツタンカーメン展のように、今日の記憶もただ美しかったという言葉で終わらせてしまう日が来るのかもしれない。
それまではせいぜい手元の写真と、ここに書いた言葉と一緒に、ぼんやりとした思い出の庭に佇んでいようと思う。

追記
お土産を買ってしまった。
図録、とてもいい。
栞もポストカードもいい。



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