見せかけの美と本物の美の違い
きらびやかで華やか
いわゆるインスタ映えするものが人気の今
本当に美しいもの
本当にいいものとは何か
問われた気がした。
というのは、
池坊専宗さんのお話を聴いた。
専宗さんは、池坊家元のお孫さんで、
華道家・写真家として活躍されている。
最初にお写真を見たのは、
どの雑誌だったか忘れてしまったけれど、
複数の記事で、取り上げられていて
お逢いしてみたいと思った。
資生堂では、こんな記事を書かれていて、
資生堂のロゴマーク花椿を
いけられていたのが印象的だった。
資生堂の資生とは、
易経の言葉に由来する。
中国の古典、四書五経の中でも
最も古い易経の一節、
坤為地の言葉にある。
「大地の徳はなんと素晴らしいものであろうか。
すべてのものは、ここから生まれる」
という意味だ。
女性を象徴する「坤」の辞を
資生堂は社名にしている。
易経の話を出したのは。
その中の、山火賁(さんかひ)という卦を
池坊専宗さんのお話を聞いて、思い出した。
山火賁という卦は、
山の下に火がある、
つまり夕陽に照らされた草原があるイメージだ。
一面が美しく照り輝いている。
なので、飾り立てるとか、
表面的に着飾るイメージがされるけれど、
山火賁のかざるというのは、
あるものの価値を
より効果的にするために粧うこと。
もともと価値があって、
その価値をおとしめないために
見た目も整えるということ。
何もないものをあるかのように
嘘をつくことではない。
易経の竹村亞希子先生は、
山火賁は、かざらないことであり、
本当の美しさ、本質的なものは何かを問うて
本質とかざりがマッチしたときに
バランスがとれて美しいのだと。
山火賁を、表面的にかざることだと思っていた私は
正反対のかざらないことだと知って、驚愕した。
池坊専宗さんが質問に答えて仰った。
いいいけばなの写真を撮るには
そもそもよいいけばなをいけることが先にあり
いけばなの写真を(あとから)
技巧的にきらびやかにみせることは
違うのではないかなと思う。
まず、自分の心を動かした
花を自分でいける。
そのいけばなを、
自分の感じたままに映すことが
心を動かす写真になるのだろう。
そんな専宗さんのいけばなは、
あるがままの姿を大切にされている。
花をこうしてやろうとか
意図や我が見えない。
どこか懐かしさが漂う。
お祖父様である家元、
お母様である次期家元と3代にわたって
一緒に作品を並べると、
専宗さんが一番じじくさいと言われるそう。
最も地味で、華やかさに欠けると。
手にライカのマニュアルのカメラをお持ちだった。
何でも自動で映すカメラが主流の今、
このすぐに撮れない手動の味わいが好きで、
古いものを好むという。
専宗さんの魅力が、わかった気がした。
山火賁だ。
わざわざかざりたてる必要もなく
華道界の御曹司は
その存在が素敵だった。