【有名になると4ぬ】キラキラしてる人たちの苦しみ。映えてる写真の向こう側。凡人が最も幸せである理由。
年を取ると、好きだったマンガ家やイラストレーター、小説家さんたちが亡くなったと聞き、悲しくなることがあります。
私が愛した彼らの作品。
その続編、あるいは新作が発表されることは、もう二度とないんだなぁ……と、なんとも言えない気持ちになるからです。
そして、そんな彼らの享年を知ると、平均寿命を遥かに下回る年齢で驚かされます。
現在、日本人の平均寿命は男性で80歳、女性で86歳くらいだそうですが、私の愛する彼らは、70歳にも満たない年齢で亡くなっているケースが多いです。
なぜ、そうなるのか。
私が手持ち無沙汰にぼんやり考えた偏見を、つらつら書いていこうかと思います。
1. キラキラしてる人たちの苦しみ
SNSが発達した昨今では、「有名になりたい!」と強く渇望している若者が多いように感じます。
Youtuber、Vtuber、インスタグラマー、TikToker、etc……。
スマホの画面を開けば、自分と大差ない年齢の子が「キラキラ」しながら画面を飾る。
たくさんの人がコメントして、「いいね!」して、注目されている。
「ずるい! わたしだって、注目されたい! チヤホヤされたい! キラキラしたい!」
そんな思いで画面の向こうにいる彼らを真似て、「わたしを見て!」と叫び続ける。
大抵の場合は上手くいかずに絶望して、「キラキラ」している人たちを妬んで。
少し上手くいった人は、自分よりもっと「キラキラ」してる人たちに憧れて、妬んで、渇望して。
頂点まで昇り詰めた人は、そこに「自分の欲しかったもの」が、なにもないことに気づく。
その先に待っているのは、空っぽのまま「わたしはキラキラしてるの! 幸せなの!」と嘘をつき続けるか、もとの「キラキラしてない自分」まで落ちていくのを嘲笑(わら)われるかの二択。
最初から、それが「金色のクルミ」だと、わかっていれば。
掴んで、握りつぶす前に。
手を伸ばす前に。
その中身が「空っぽ」だと見抜けていれば。
そうしたら、こんな負け確の勝負をせずに済んだのにね。
そんな風に、私も過去の自分を苦笑します。
2. 映えてる写真の向こう側
そもそも、本当に幸せを堪能している人たちは写真なんて撮りません。
Youtubeも撮影しないし、Vtuberの仮面も被らない。
ただ好きな人と美味しいものを食べ、一緒に遊んで、笑って……そんなささやかな幸せを味わっているものです。
「見て! 幸せそうでしょ!? すごいでしょ!?」
と主張している人は、大抵の場合、自分でも「自分が幸せかどうか判断できない」か、周囲に合わせて「わざわざ自分の幸せを台無しにしている」かのどちらかです。
キラキラしている写真の向こう側は、大抵モノクロ。
残酷ですが、これが真実です。
3. 凡人が最も幸せである理由
ここまでは「知名度」に関する話をしましたが、「お金」に関しても似たようなことが言えます。
昨今、日本では「宗教」の価値が軽んじられ、無宗教の若者が大多数であるように感じます。
かく言う私も、「宗教? オカルト? そんなもんで幸せになれるなら苦労しねぇ!」とか「神様が本当にいるなら、俺がこんなに不幸なわけがねぇ!」などと血気盛んな若者時代を過ごしてきました。
しかし、今は考えを改めています。
宗教自体に本当に価値があるかはさておき、宗教を信じない人間の大半は「お金」を信じるしかなくなってしまうからです。
「もっとお金があれば幸せになれるのに!」
「お金持ちのあの人が言うなら、間違いない」
「老後の2000万がなくて不安」
「どうすれば、もっとお金が稼げるの?」
金! カネ!! かね!!!
それはもう、「お金教」という宗教だと言っても、過言ではないでしょう。
しかし、断言します。
「凡人」の域を超えたお金を持つと、人は必ず狂います。
かく言う私も、以前、毎月100万円以上の散財をしていた頃は、人として狂っていました。
お金があると、他人に頭を下げる必要がなくなります。
働く必要もなくなります。
時間は有り余るほどあります。
大抵の他人は、手持ちの万札を何枚か渡すだけで言うことを聞きます。
我慢する必要はありません。
節制する必要もありません。
好きな時に、好きなことが、好きなだけできます。
おや? 自分の言う事を聞かない人間がいるぞ?
おかしい。懲らしめてしまえ。
おや? なんだか気に入らない現象があるぞ?
なぜだ。いくらでもお金を払うと言っているのに、なんで思い通りにならない?
苦しい。
だって、わたしにはお金があるのに。
みんな尊敬して、チヤホヤしてくれるのに。
あの頃「欲しい」と思っていたものは、ぜんぶ手に入ったはずなのに。
どうしてこんなに、つらくて、悲しいの?
「非凡」になることは、「凡人」でなくなること。
それは「苦しみがなくなる」ことではなく、「凡人が経験しない苦しみ」が降り注ぐようになること。
フツウ と トクベツ。
どっちが幸せなんだろうね。
少なくとも、凡人の方が「最近、こんなことがつらくてさー」と話せる相手は多い。
なぜって、非凡より凡人の方が、単純に人数が多いのだから。
それに、凡人はみんな似ているけど、非凡にはたくさんの種類がある。
おめでとう。
きみは、トクベツだ。
トクベツってことは、きみ以外に、きみに似ている人がいないってことさ。
4. ささやかな幸せ
大抵の物事には「最大化」する方法と「最適化」する方法があるように思います。
そして大抵、「最適化」する方が正しい。
お金を「最大化」することだけ考えたら、会社の仕事が終わったあとにアルバイトをするのが正しい。
もしくは、単純に寝落ちするギリギリまで残業するか。
いやいや、それ以上に睡眠時間をゼロにして、24時間仕事した方がお金はもらえるって!
でも、そんなことをすれば身体を壊すというのは、だれだってわかります。
知名度も、そう。
健康だって、そう。
友達も、恋人も。
幸せだって、そう。
「最大」のなにか、より。
「最適」の――ほどほどの、なにか、がきっと正しい。
だから、有名になると4ぬ。
お金も、時間も、知名度も、幸せも、承認欲求も、他人も、能力も、遊びも、食事も、欲望も――
ありとあらゆるものを最大化してしまったから。
そのツケは、必ず「健康」や「精神」や「寿命」を蝕(むしば)む。
太く短く生きる――
そんなやり方も、いいけれど。
ラストがバッドエンドなんて、さみしいじゃないですか。
だから私は、ほどほどの――「ささやかな幸せ」を望む。
今日もコーヒーがおいしかったし、本も読めた。
このあとは、お気に入りの音楽を一曲聞こう。
だれかが、テキトーに書いたnoteの記事に「いいね」してくれるかも。
そんな日々の方が、ずっといい。
あの狂った、トクベツで、一人ぼっちで、苦しい毎日よりは。
――でも、一度くらい。
人生に一回くらい、騙(だま)されるとわかっていながら、「金色のクルミ」に手を伸ばしてみるのもいい。
たとえ、その中身が空っぽだったとしても。
握りつぶしたその手のひらに、きっと「なにか」は残っている。