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冬坂麗華の初恋


(※注)「好きな人がバレたら死ぬラブコメ」のネタバレを含みます。未読の方は、先に本編をお読みください。この短編の時系列は、エピローグの一週間後辺りを想定しています。


     ◇


 わたくしが『冬坂麗華』を始めてから、今年で十六年になります。
 冬坂麗華は、わたくしの名前であると同時に役割でもあります。……いえ、どちらかと言えば、役割を指すことが多いでしょう。
 日本を代表する四大財閥の一つ。
『人の冬坂』と呼ばれる冬坂財閥・現当主の一人娘。
 そんな立場に生まれてしまった以上、わたくしは誰よりも完璧でなければなりませんでした。
 知力。美力。体力。教養。リーダーシップ。統率力。対人能力。
 その他、ありとあらゆる力を手に入れるため、わたくしはそれに相応しいだけの地獄を見てきました。それは、正当な対価だったと思います。なにかを手に入れるためには代償が必要です。事実、多くの代償を払ったわたくしは、同年代の誰よりも優秀な人間として育ちました。
 そんなわたくしが、つい先日、人生で初めての敗北を喫しました。
 覇王学園〈特待生〉。青山夏海さん。
 わたくしよりも強い彼は、いったい、どれほどの地獄を見てきたのでしょうか。

     ◇

「とっ、冬坂さんっ! よかったら、帰りにマックに寄っていきませんかっ!?」
 その日も、クラスメイトの男子からデートのお誘いを受けました。
 冬坂麗華としては当然のことです。誰よりも美力や知力を磨き、人を惹きつけ従えるために作られた人間。それが、わたくしなのですから。
「………………」
 声をかけてきたのは、美力でも知力でも体力でも劣る、冴えない男子でした。
 そんな彼が、なぜわたくしをデートに誘えると思っているのか、甚だ疑問です。……きっと、宝くじでも買うような感覚なのでしょう。上手く行かなくて当たり前。当たれば、儲けもの。そんな感覚。
 彼の背後にちらりと目をやると、彼の友人らしき男子も数名見受けられました。もしわたくしに断られても、慰めてもらえる。笑い飛ばしてもらえる。だから大丈夫。……そういう、保険。
 そんな心持ちの殿方になびくほど、冬坂麗華は安くないのですが……こんな弱者にも丁寧に接しなければなりません。それが人の上に立つ者の務め。こんな弱者でも、使い捨ての駒程度には利用する時が来るかもしれません。
 それに、誘い方はともかく、タイミングは悪くありませんでした。
 帰りのホームルームが終わった直後。
 まだ『あの人』もいる教室。
『カノジョ』が他の男にアプローチされて、少しは嫉妬してくれているかしら――と、わたくしは夏海さんの方を見ました。
「青山。悪いが、職員室までプリント運ぶのを手伝ってくれ」
「いや、美硯先生、俺はちょっと用事が――」
「昨夜の尋問を続けるのとプリントを運ぶの、どっちがいい?」
「運びます」
 想い人は、わたくしのことなどガン無視で、美硯先生と話していました。
 ……ちょっと待ってくださいまし。
 今日も、放課後デートはナシなんですの?
 というか『昨夜の尋問』などという、非常に気になるワードが――
 問い詰めたいことは山ほどあるのに、夏海さんは美硯先生と一緒に教室を出ていってしまわれました。今すぐ追いかけたいのは山々ですが、目の前の男子生徒を無下にすることはできず、動けません。
 ……落ち着くのです、麗華。
 冬坂たる者、心を乱してはなりません。
 まずは丁寧かつ余裕たっぷりに目の前の男子のお誘いをお断りし、優雅かつ気品のある足取りでもって、夏海さんを追いかけましょう。大丈夫です。間に合います。
 わたくしはそう自分に言い聞かせて、ゆっくりと口を開きました。

「お断りしますわ。このわたくしが、そんなジャンクフードを口にするとでも? レディを誘いたいなら、せめて一流ホテルのラウンジを予約しなさい。もっとも、それでも貴方のお誘いなどお断りしますが。だいたい、帰り道にスタバがあるのに、マックを提案する時点で終わっていますの。『美女と過ごしたいけど、お金は使いたくない』という薄汚れた根性が透けて見えますわ。貴方のような下賤な人間に話しかけられると、わたくしの品格まで落ちてしまいますの。もう二度と、わたくしの視界に入らないで頂けますこと?(早口)」

 わたくしの丁寧かつ余裕たっぷりのお断りを聞いて、目の前の男子が泣きながら崩れ落ちました。
 ……おかしいですわね。これ以上の台詞が浮かびませんでした。
 わたくしは「とにかくっ! 今日は急ぎますのでっ!」と捨て置いて、優雅かつ気品のある足取りで歩――駆け出しました。
「きゃぅんっ!?」
 直後、右足の小指に痛烈な痛みが走ります。
 どうやら、机の足の角にぶつけてしまったようです。
 人生で初めて感じる痛みに、思わずうずくまってしまいました。冬坂麗華ともあろう者が、なんたる屈辱……。しかし、こうでもしないと耐えられそうにありません。
 先ほどの男子が「だ、大丈夫ですか……?」とおっかなびっくり話しかけてきますが、今はそれどころではありません。随分と時間をロスしてしまいました。このままでは、夏海さんが帰って――
「おーい、冬坂ー。ヒマだったら、帰りにマクド寄ってかないかー?」
 教室の入り口からひょっこり顔を出した想い人が、気の抜けた表情で手を振っています。
 わたくしはうずくまったまま、涙のにじむ顔で必死に叫びました。
「行きますぅっ!!!!!」
 後ろで先ほどの男子が「ええー……」と言っていた気がしますが、気づかなかったことにしました。

     ◇

「残っててくれて、助かったよ。美硯先生から急な頼み事されちゃってさー」
 駅の方へ向かって歩きながら、夏海さんがそんな風に切り出します。
 ……ええ。存じ上げておりますわ。
 夏海さんと違って、わたくしは恋人のことをよく見ておりますので。
 そんな気持ちを込めてジト目を向けるも、夏海さんは気づいてくれません。『昨夜の尋問』とやらを追求してやろうかしら。
「冬坂、今日は何時までいける?」
 左腕に巻かれたスマートウォッチ――覇王学園の〈学生証〉で時間を確認しながら、問いかけてきます。
 今年から覇王学園は全寮制となり、全校生徒は寮での生活を義務付けられております。しかし、寮に門限はありません。『次代を担う人財たる者、自己責任の下に自由を謳歌せよ』……というのが表向きの理由で、実際は〈学生証〉により二十四時間監視しているからでしょう。
 よって、ここでのわたくしの回答は――
「無限です」
「……無限」
「ええ、無限ですわ」
 夜から朝まで。なんなら、明日の学園をズル休みしても構いません。
 幸い、今日の下着は、前回のデートで夏海さんが選んでくださったピンク。準備は万全ですの。
 ……もっとも、さすがのわたくしも、そういった経験はおろか、キスすらしたことがないのですが……予習はバッチリ済ませてあります。大丈夫です。麗華、行けます。
 覇王学園は学力の維持さえしていれば、出席日数もかなり多めに見てもらえます。万が一、エキサイトして明日の朝までフィーバーしてしまっても……問題ありません。もしダメでも、巨額を寄付すれば握り潰せますわ。おいくら払えばいいのかしら?
「じゃあ、ちょっと遠出しよう。デートってことで」
 ……デート。
 なんて甘美な響きなのでしょう。わたくし、脳がトロけてしまいますわ……。
「前に冬坂も言ってたけど、〈強制交際権〉で付き合ってるのにデートしないって、違和感ありすぎるもんな……。冬坂は嫌だろうから申し訳ないけど、付き合ってくれ」
〈特待生〉が〈強制交際権〉で指名した相手を、他生徒が〈コール〉することはできない――そんなルールがあります。
 本来であれば、〈強制交際権〉で指名する相手は自分の『好きな人』なので、〈特待生〉となった時点で『好きバレ』による退学リスクはなくなります。
 しかし、夏海さんの『好きな人』は他にいるわけで、『青山夏海の好きな人は桜雨春香である』と〈コール〉することは、現在も有効。その場合、夏海さんは退学処分となってしまいます。
 ですから、『好きバレ』を防ぐ意味でも、わたくしと積極的にデートするべきだと、以前申し上げたのでした。
 ……ナイスですわ、過去のわたくし。ご褒美にパンケーキの山盛りを許可します。
 もっとも、それを食べるのは現在のわたくしになるのですが。
 そんなことを徒然なるままに考えていると、夏海さんがそっとわたくしの手を握ってきました。
「ひゃんっ!?」
「わ、悪い。痛かったか? 爪はちゃんと切ってあるんだけど……」
「い、いえっ! 全然痛くないです! ただ、急で驚いたと言いますか――!!」
「前のデートで『腕くらい組むものだ』って冬坂が教えてくれたけど……やっぱり恥ずかしいから、これくらいでどうかなって思ったんだけど……」
 言葉通り、恥ずかしそうに頬をかく夏海さん。
 ……ナイスすぎますわ、過去のわたくし。
 ご褒美に、ブランドバッグの買い放題を進呈いたします。もっとも、それを買うのは現在のわたくし――と、そこまで考えたところで、夏海さんの〈学生証〉から「ピコン!」と音が鳴りました。
「あれ? 〈恋愛学〉の点数? 冬坂、ひょっとしてドキドキ――」
「きゅ、急で驚いたドキドキを〈学生証〉が誤認したようですわねっ!」
「え? でも、五月のシステム改修で、恋愛以外のドキドキはカウントされなくなったって――」
「えいっ、ですわ」
「のわっ!?」
 夏海さんの指の間にわたくしの指を滑り込ませ、恋人繋ぎに移行します。
 必然、二人の距離は近づき、腕を組んだ時と大差ないくらいまで体を密着させました。
 ……女性的な膨らみは心許ないですが、足りない戦力は他でカバーしますの。念のためにと授業終わりに付け直した香水は、殿方を誘惑する絶好のミドルノート。斜め下からの上目遣い。さらりと流れる自慢のストロベリーブロンド。女の武器、総動員。
 果たして、わたくしの〈学生証〉からも「ピコン!」と音が鳴りました。
「……確かに、システムは未だ、不安定らしい」
「そのようですわね」
 そういうことに、しておきましょう。
 夏海さんがわたくし相手でもドキドキしてくださるのは、わたくしだけが知っておけばいいんですもの。
 そうこうしている間に駅に着き、改札を通って、都心から離れる方面の電車へと乗り込みました。
 てっきり、駅前のマクド(夏海さんに倣って、今日からそう呼びます)に行くと思っていたわたくしは、目をパチクリとさせたのですが……「時間があるなら、行きたい店舗があるんだ」と言う夏海さんに従います。
 不満など、あるはずがありません。
 どこへでも、ご一緒しますわ。
 学生が帰宅する時間帯にもかかわらず、はかったような時間と乗り口のおかげで、わたくしたちは無事、二人掛けの席に座ることができました。
 夏海さんは「たまたまだ」とおっしゃっていましたが、どう考えても改札口から遠い乗り口まで移動する必然性がありませんの。きっと、前もって調べてくださったのでしょう。こういうことをサラリとできる辺り、他の女性にも人気が出そうで嫉妬してしまいます。
「……座ったし、そろそろ手を離さないか?」
「〈強制交際権〉で指名したのは夏海さんですのに、夏海さんから手を離したいと言うのは不自然だと思いますの」
「確かにそうだけど……」
「……ふふっ」
 力を入れたり、緩めたり。
 ふにふに、と想い人の手を堪能します。
 中学時代は体育会系だったそうですが、その割に夏海さんの手はきれいでした。しっとりしていて、すべすべで、滑らかで……まるで女の子の手のようです。
「それにしても、殿方で爪の手入れをしっかりなさっているのは、えらいですわ」
「ああ……。八矢がちゃんと切れって、うるさくてな……」
「髪形もさっぱりしていて、清潔感がありますわよね」
「八矢が月一で美容院行けって、ゴリ押しするから……」
「お肌もきれい。女の子みたいですわ」
「八矢に言われて、洗顔ネットとワセリンを使ってる」
「デオドラント関係もしっかりされているようで」
「八矢が――」
「……ぶちますわよ?」
「なんで!?」
 夏海さんが怯えたように距離を取ります。
 こちらこそ『なんで!?』ですわ。夏海さん、八矢さんに染められ過ぎじゃありませんこと……?
 ここまで来ると、逆に私服だけおざなりだったのが気になります。
 他は自分好みにしておいて、服だけ手を抜くことで、他の女性を寄せ付けないための作戦……? もしくは、八矢さん自身が制服かジャージの『フェチ』で、あえてそうしていた可能性も――
「……夏海さん。今度、エル○スの洋服をプレゼントしますわ」
「再び、なんで!?」
「フェン○ィがお好みですか? それとも、マル○ェラ? とにかく、夏海さんは制服とジャージ以外の服をもっと着るべきです。何事も経験。今後、わたくしとデートする時はハイブランドの服を試してみましょう」
「いや、この前、冬坂に選んでもらったユニクロの服があるし……」
「仕方ありません。ユニクロを買収してハイブランドに――」
「なんでも着ますっ!」
 夏海さんが元気よく返事をしてくださいました。
 それでいいのです。
 他の女が好むファッションなど、絶対にさせるものですか。
 わたくしの好みで言えば、そうですわね……。やはり、シンプルながらも仕立ての良い、上質なジャケットコーデ辺りから……などと考えていますと、どこか言いづらそうにした夏海さんが、おずおずと切り出しました。
「あー……。すまん、冬坂。一つ、恥ずかしい告白があるんだが……」
「なんでしょう?」
 愛の告白かしら?
「俺、『鋭い系主人公』を自称してるからさ……。ちょっと、勘違いしてるようで……」
「勘違い?」
「『冬坂って、俺のこと好きなんじゃね?』って」
「ぴぇっ!?」
 喉から変な音が出ました。
「タイミングとしては、例の屋上での一件。あれをきっかけに、冬坂が俺のことを意識し始めて……そのまま、ゴールデンウィークに突入して。俺のことを悶々と考える内に、いつの間にか好きになっていた、とか……」
「…………」
「教室でチラチラ俺の方を見てくるのは、好きな人の動向が気になるから。最近、妙に余裕がないのは、慣れない恋に脳の処理能力を奪われているから。俺の手を離したがらないのは、好きな人の手に触れていたいから。さっき怒ったのは、俺が八矢に染められているとでも感じて、嫉妬したから……かな、とか」
「…………」
 ……鋭すぎません?
「しかし! そうなると、冬坂がチョロインということになってしまう! そんなはずないのにっ!! あの冬坂が! 自信満々に『美女』を自称する冬坂麗華が!! 誇り高き冬坂財閥のご令嬢が!! ポッと出の男にちょっと優しくされただけでコロッと行ってしまう、お手軽なチョロい女の子のはずがないのに!! 俺の『鋭い系主人公』センサーが暴走して、勝手に都合のいい妄想をしてしまうんだ……!!」
「…………」
「すまない、冬坂! 自分勝手でありえない妄想をしてしまって!!」
 夏海さんが勢いよく頭を下げてきます。
 よほど、罪悪感を感じていたのでしょう。
 わたくしは、窓の外にそっと視線を投げ、アンニュイかつ菩薩のような表情のまま、静かに申し上げました。
「ええ……。構いませんわ……。殿方に都合の良い妄想をされてしまうのも、美女の嗜み……ですもの……」
 いやですわね。わたくし、泣いておりませんよ?
 ただ、ちょーっとだけ、目が死んでいるだけですの。
 わたくしから赦しを得てほっとしたのか、夏海さんは「そうだよな! 冬坂は『仲間』として、俺の『好きバレ』を防ごうと、必死にそれっぽいフリをしてくれてるだけだよなっ!」と清々しい笑顔で納得していらっしゃいました。
『仲間』とはなんなのか、改めて考えたくなりますわね……。
 あと、夏海さんは絶対に『鋭い系主人公』を自称してはなりません。
 鋭すぎて、逆に鈍いです。『三六〇度は、実質〇度』みたいな状態なのだと思います。

     ◇

 電車に揺られること、一時間。
「ここだよ」と言う夏海さんに手を引かれて、わたくしたちは目的地にたどり着きました。
 時計を見ると、確かに一時間ほど数字が進んでいたのですが……わたくしにとっては一瞬のように感じる一時間でした。かの有名なアインシュタインが提唱した相対性理論とは、こういう感覚のことを言うのでしょう。
 今度こそ、わたくしは、あの有名な赤と黄色の看板を目にするものと思っておりましたが……夏海さんのエスコートで行き着いたのは、寂れた遊園地でした。
 申し訳程度に小さなコーヒーカップやメリーゴーランドなどの遊具があり、平日の夕方だからという言い訳を差し引いても、明らかに園内はガラガラです。この程度の集客でやっていけるのかしら……?と職業病のようにソロバンを弾いていると、二人分の入場チケットを購入した夏海さんが戻って来られました。
「すみません、ぼーっとしておりました。おいくらでしたか?」
「いや、いいよ。今日は俺が誘ったんだし、出させてくれ」
 当然のようにそう言って、チケットを手渡してくださいます。
 ……仕方ありませんわね。殿方を立てるのも、美女の務め。ここはあえて、お言葉に甘えることにいたしましょう。……そんな風に言い訳します。
 想い人から大切に扱われてうれしいのは、もちろん内緒です。
「この中にあるマクドが、かなり評判良くってさ。一度、来てみたかったんだ」
 ……なるほど。そういうことでしたのね。
 わたくしは、もう顔も覚えていない、放課後に言い寄ってきたモブ男子を脳内で足蹴にしました。……ほら、みなさい。素敵な殿方はマクドの店舗選びも一流ですの。貴方程度が雑に選んだ店舗で食事するほど、冬坂麗華は安い女ではなくってよ? もっとも、夏海さんのお誘いなら、どんなお店でも喜んでご一緒しますが。
 入場ゲートをくぐり、わたくしは再び、想い人の手を取ります。
 夏海さんはまだ慣れないようで、どこか居心地悪そうにしていましたが……ふふっ。絶対に離しませんよ?
 念のため、近くにあった園内の地図を確認しましたが……小規模な遊園地なので、目的のお店はすぐに見つかりました。
「あっちみたいだな」と言う夏海さんに手を引かれ、恋人繋ぎで寄り添って歩くわたくしたちを、園内の遊具がキラキラと見守ります。
(……なかなか、良い雰囲気ですわね。そういえば、わたくし……こういった場所には来たことがないような気がします)
 もちろん、遊園地自体には何度も行ったことがあります。
 パーティー代わりにディ○ニーやU○Jを貸し切りにする権力者も多く、貴重な休日を潰して、大して興味もないアトラクションに何度乗せられたことか。……ですが、こんな風に小規模な遊園地を、それこそ家族で楽しんだことなど、一度も――
「……なあ、冬坂。よかったら……あれ、乗ってみないか?」
 お店に向かう道すがら、夏海さんがメリーゴーランドを指さして、そう言います。
(……え? ちょっと待ってくださいまし。なんですの、あれ。カボチャ? 馬車? ひょっとして、絵本に出てくる――)
 わたくしの視線が釘付けになります。
 それと同時、気づいてしまいました。知識としては知っているものの、わたくしはこれまで、人生で一度もメリーゴーランドなるものに乗ったことがないことに。
 もちろん、ディ○ニーやU○Jにも、そういった遊具はあるのでしょう。
 しかし、パーティーでお呼ばれした際には派手なアトラクションばかり優先して乗せられますし、ああいった場所にあるそれは、良くも悪くも華美で大規模です。
 幼心に夢見た『メリーゴーランド』と言えば、むしろ、目の前にあるそれの方が『本物』で――
「…………っ。こっ、子ども扱いしないでくださいましっ! わたくしはもう、高校生! 立派なレディですのよ!? 大人のレディが、あんな園児向けの遊具になど、乗るはずがありませんわっ!」
 ……やってしまいました。
 夢にまで見たメリーゴーランド。それに乗る、人生で最後のチャンスだったかもしれませんのに……。
 ですが、仕方ないのです。
 冬坂麗華とは『完璧』を目指して作られた人間。
 それなのに、『大人のレディ』たるわたくしが、まさか人生で一度もメリーゴーランドに乗ったことがないなど、恥ずかしくて言い出せなかったのです。
 腕を組み、ぷいっとそっぽを向いたわたくしに、夏海さんは「あー……。ごめんな……」と困ったように頭をかいていらっしゃいました。
 うぅ……夏海さんは悪くないですのに……。
「じゃあ、悪いけど、ちょっと待っててくれないか?」
「ふぇ?」
「俺だけ乗ってくるから」
「のっ、乗るんですのっ!?」
「うん。実は俺、人生で一度も、ああいうのに乗ったことがないんだ」
「!!!??」
 夏海さんもないんですのっ!?……という言葉を、どうにか呑み込みました。
 冬坂麗華、人生で最大の失敗です。
 最初から素直に言っていれば、なにも問題なく、二人で乗れましたのに……。
「……悪いな」と言って手を離し、一人で遊具に向かおうとする夏海さんの手を、慌てて掴み直しました。
「冬坂?」と怪訝な顔をした夏海さんが振り返ります。
 ……考えるのですわ。
 今日まで『完璧』を目指して修練し続けてきたのは、きっとこの時のため。夏海さんに不信がられず、完璧な言い訳をでっち上げて、カボチャの馬車に乗るのです。大丈夫。『冬坂』の力を総動員すれば、必ず上手く行きます!……などと、自分を鼓舞しました。
 心の中にいるもう一人のわたくしが「いえ、そんなことのために修練してきたわけでは……」と言っていた気がしますが、聞こえなかったことにしました。
 そして、自慢のストロベリーブロンドを手の甲で優雅に払うと、余裕たっぷりの態度で申し上げました。
「デート中に恋人を放置するなど、言語道断ですわ。ただ、殿方のお誘いを袖にしたわたくしにも、非はありますの。……仕方ありません。折衷案として、わたくしも一緒に乗って差し上げますわ」
 涼しい顔をしておりますが、背中にはだくだくと汗をかいています。
 ……大丈夫? 言い訳として、ちょっと苦しくないかしら?
 しかし夏海さんは、ほっとしたように「ありがとう。じゃあ、悪いけど付き合ってくれ」と言って手を引いてくださいました。
 向かう先は、メリーゴーランド。馬車の前には白い馬もいます。
 白馬に乗った王子様……。
「よし。メリーゴーランドと言えば、やっぱり馬だよな! 冬坂はどの馬にする?」
「カボチャの馬車がいいです」
「え? でも、せっかくだし――」
「カボチャの馬車がいいです」
「スカートが気になるのか? 横から座れば、普通の椅子と変わらな――」
「カボチャの馬車がいいです」
「…………あ、うん。はい」
 夏海さんのエスコートで、カボチャの馬車に乗り込みます。
 夢にまで見た、絵本の世界……。
「ちょっ!? どうして夏海さんまで乗り込んで来ますの!?」
「え? だって、冬坂が『カボチャの馬車がいい』って――」
「馬車に乗るのは、わたくしだけですわ! 夏海さんは馬に!」
「でも、さっき『デート中に恋人を放置するのは言語道断』って――」
「一緒にメリーゴーランドを楽しんでいるから、いいのです!」
「そ、そうなのか……。じゃあ、あの金色の馬に――」
「選んでいいのは、白い馬だけです」
「なんで!?」
「ちなみに、わたくしの前方で、かつ半径二メートル以内が条件ですの。それが紳士の嗜みですわ」
「俺の知らない紳士界!」
 全力でツッコみつつも、特に不満はないのか、夏海さんが馬車の前にいる白い馬に跨りました。
 ……似合いますわね。ゆくゆくは、乗馬も嗜んで頂きたいですわ。
 発車を知らせるブザーの後、メルヘンな音楽が流れ始め、ゆっくりと遊具が回転を始めました。……単純な構造。大型遊園地のアトラクションに比べれば、あまりにもチープな体験。それなのに、わたくしの心はなによりも強く惹きつけられ、あたたかな幸福感に包まれました。
 途中、母親らしき女性に手を引かれた子どもと目が合いました。とても気恥ずかしく感じたのですが……もう一周して再び目が合った際に「……お姫さま?」と首を傾げていたので、思い切って手を振ってみました。
 その子どもは、わたくしよりもずっと素直なようで「わーい!」と元気いっぱいに手を振り返してくれました。嬉しいような、くすぐったいような……なんとも言えない気持ちが込み上げてきます。
 ちなみに、三回目にその子と目が合った時には、
「ねー、お母さん。あの男の人は、お姫さまの『げぼく』?」
「こ、こらっ!」
 というやり取りが聞こえ、前の馬に乗った夏海さんが苦笑いを浮かべていました。
 その年でその単語を知っているとは、中々に将来有望ですわね……。
 でも残念。今回はハズレですの。
 あの人は、わたくしの……王子様ですのよ。
 そんなことを思い、自然と口元が綻ぶのを感じました。


 メリーゴーランドが終わった後、わたくしたちはついに、本日のメインであるマクドに入りました。
 店内はガラガラで、わたくしたちの他にお客さんはいません。
 本当に大丈夫なのかしら、この遊園地……。
 わたくしの手を引いていた夏海さんがそっと手を離し、一番奥の席で貴族のように恭しくお辞儀します。見れば、テーブルには一輪のバラが飾ってありました。
「キミのために、窓際の席を用意したんだ」
「………………」
「……あの。冬坂? ここ、笑うところなんだけど……」
「すみません。普通にときめいてしまいましたわ」
 確かに、これはギャグ用のセッティングなのでしょう。
 ファーストフード店で席の予約。一階なのに、謎の窓際推し。お店の雰囲気に合わない純白のテーブルクロスと、赤いバラ。……これで参ってしまうなんて、わたくしの方が『好きバレ』しそうで怖いですわ……。
 ですが、仕方ないのです。
 きっと、夏海さんは知らないのでしょうね。
 赤いバラの花言葉は『あなたを愛しています』。とりわけ、一本だと『一目惚れ』『あなたしかいない』という意味になることなど……。
 わたくしの沈黙を『ギャグがスベった』と誤解したのか、「やっぱ、慣れないことはするもんじゃねぇなー……」と苦笑しながら、いつもの雰囲気に戻って席につかれます。……九死に一生とは、このことです。
 お客さんがわたくしたちしかいないためか、店主らしき方が直接注文を聞きに来てくださいました。夏海さんがダブルチーズバーガーをポテトとコーラのセットで注文されたので、わたくしも同じものを紅茶で注文しました。
 ファーストフードなのに、なぜか十分以上も待たされて、お料理が運ばれてきます。
 ポテトを揚げ直してくださったのかしら……?などと思っていますと、丁寧にクローシュ(銀色の丸い蓋)の被さったハンバーガーとポテトが、お皿で提供されました。コーラはガラス製のグラスに、紅茶は陶器のティーカップに入っています。今気づきましたが、テーブルにはナイフとフォークも用意してありました。
「冬坂には、こういう方がいいかと思って」
「……さすがのわたくしも、こういったお店ではナイフやフォークを使わないことくらい、存じ上げておりますわ」
「だよなー……。余計な気遣いだったか……」
「いいえ。大変うれしく思います」
 夏海さんの前で、万が一にもほっぺにケチャップをつけなくて済むこと。
 なにより、わたくしを想ってしてくださった気遣いに、感無量ですの。
 これだけでも十分に素敵な体験でしたが……ナイフとフォークを使って切り分けたハンバーガーを口に運ぶと、さらに驚きが広がります。
「あら……? 美味しい……?」
 味は確かにジャンクフード。
 人生で何度か口にした、記憶にある味と同じ。
 ですが……今、口にしたそれは、これまで食べたどれよりも美味しく感じました。
 どこか緊張した面持ちだった夏海さんが安堵の息をつき、イタズラが成功した子どものような笑みを浮かべます。
「口に合ったようで、よかった。ここのマスター、かなりこだわりの強い人でさ。マクドのハンバーガーに命懸けてるんだ」
「ですが、チェーン店のお料理ですのよね……?」
「そう、チェーン店だ。だから、料理の味はどこでも同じ――と、普通の人は考える。でも、厳密に言えば、小麦や卵や肉……素材の産地はそれぞれ違うし、料理を温める時間や揚げ物に使う油の質、塩やソースの分量だってバラバラだ。ここのマスターは、そんな細かな条件を調整して、最高のマクドを出してくれる」
「なるほど……。そういうことですか……」
 思わずもう一口、ハンバーガーを口へ運びます。
 なんて夢のあるお料理なのでしょう。
 これまで何度も高級と言われるレストランで食事してきましたが、これほどワクワクするお料理は食べたことがありません。ポテトも口にしましたが、そちらも最高の出来栄えでした。これなら、下手な高級レストランより、よほど美味しいでしょう。
「……さすがですわね。『数学』の天才は、デートもお上手なようで」
「あー……。そのことなんだけど……」
 またもや、言いづらそうにする夏海さん。
 今日は秘密のお話が多いですわね。もちろん、わたくしは大歓迎ですが。
「今の俺にはもう、当時の数学力はないんだ。ほとんどの内容を忘れちまった」
「……え? そうなのですか?」
 意外すぎる告白に、頭の中が疑問符でいっぱいになります。
 だって、せっかく『神童』とまで謳われた『力』ですのに……。
「中学時代は部活とバイトばかりしてたって、前に言ったろ? ギリギリ覇王学園に受かるくらいの学力は維持してるけど……もう、まともな論文は書けないな」
「そんな……。せめて『ミレニアム懸賞問題』くらい解いておけばよかったですのに。まだ懸賞金は生きていますし、夏海さんなら解けたのでしょう?」
「期待が重いなぁ……。……でも確かに、昔の俺があのまま続けていたら、解けたかもしれない」
「なんてもったいない……」
『冬坂』の常識として、当然のようにそう思います。
 懸賞金の合計額は、日本円にして約六億円。
 経済的合理性を考えれば、それだけの金額を捨てる意味がわかりません。
 しかし夏海さんは、一切の後悔がないかのように、からっとした表情をされています。
「いいんだ。ほかに、もっと大切なものを見つけたから」
「…………。……ちなみに、その『数学』を捨てたきっかけは、桜雨さんだったりしますの?」
「――――ぶふっ!? げほっ、げほっ! なんでっ、冬坂がそれを……!?」
「……女の勘、ですかね……」
 なるほど。そこで繋がりますの。
 すっかりお料理を食べ終え、食後の紅茶を傾けながら、そんなことを思います。
 わたくしが調べられる限りでは、小学生時代も中学生時代も、夏海さんと桜雨さんに接点はありませんでした。ですが、どう考えても、夏海さんが容姿だけで女の子に一目惚れするなんて考えられません(もしするなら、わたくしにしているはず)。
 なので、記録に残らない接点がどこかにあったのでは……?と思っていたのですが、意図せず、夏海さんご本人から真実を聞き出せてしまいました。……せっかく楽しいデートでしたのに、急に醒めてきましたわね……。
「頼む、冬坂!! このことは、春香には内緒にしてくれ! どうやら春香は、昔、俺と会ったことがあるのを忘れているらしいんだ! 俺がこんなことを覚えていると知られたら、『好きバレ』してしまう!!」
「……さーて。どういたしましょうか……」
 つーん、とそっぽを向きながら、呆れたように思います。
 そんなこと、あるわけないと。
 桜雨さんの態度を見ていれば、夏海さんに対して、友達以上の好意があることは明らか。であれば、彼女も夏海さんとの過去を覚えていると考える方が自然ですわ。
 もっとも、絶対にそんなことは教えてあげませんが。
 恋のライバルに塩を送るなど、自殺行為もいいところです。
「そ、そうだっ! デザート食べないか!? 朝メニュー限定のパンケーキを、特別に出してもらえるようお願いしてあるんだ! ソフトクリームをトッピングして、上からメープルシロップかりんごジャムをかけて食べよう!」
「……急にご機嫌取りが露骨ですわね」
「うぐっ……。冬坂が食べないなら、俺だけ注文するけど……」
「食べないとは言っておりません」
 夏海さんが再び店主さんを呼んで、デザートを注文します。
 はぁ……。人生で初めて好きになった殿方には別の好きな人がいて、しかもその人と両想いだなんて……。なんたる悲恋……。
 神様……。麗華はそんなに、悪いことをしましたか……?
 ……。……。……。
 ……心当たりが多すぎて、どれが原因かわかりませんわね。
 テーブルの向こうで、なおも夏海さんが不安そうな顔をしていらっしゃったので「ご安心ください。言いませんわよ」と投げやりに伝えると、ほっとしたように甘く微笑みました。
 くっ……その表情をやめなさいっ!
 その爽やかで甘酸っぱい微笑みは、レディに毒ですのっ!
 わたくしはなにかを誤魔化すように、再びティーカップを傾けます。
「それでしたら、ここも桜雨さんと来ればよかったですのに。夏海さんの様子を見るに、初めてなのでしょう? わたくしでよかったのですか?」
「あー……。実は俺、昔はこの辺に住んでたんだ」
 コーラを飲みきった夏海さんが、テーブルにグラスを置きました。
 冷たそうな氷が一つ、カラン、と音を立てます。
「小学生くらいまでだけどな。近場の遊園地なんてここしかないから、同級生にも大人気でさ。休み明けの月曜日になると、親に連れて行ってもらったクラスメイトが『観覧車が楽しかった!』とか『メリーゴーランドがキラキラしてた!』とか『ハンバーガーがおいしかった!』とか、はしゃいでてさ。俺はたぶん……羨ましかったんだと思う」
「…………」
「もしかしたら知ってるかもしれないけど、俺は昔から親と仲が悪くてね。こんなところには……いや。こんなところも含めて、一度も親に遊んでもらった記憶がないんだ。だから、どうしても一度……来てみたかった」
「…………」

 わたくしと、同じ――――

 ずっと不思議でした。
 なぜ、夏海さんだけが、こうもわたくしの心を揺さぶるのか。
 どうして、わたくしの気持ちがわかるのか。
 わたくしを助けてくださった時、どんな気持ちだったのか。
 それらの疑問が今、全て氷解しました。
 同じ……だったのですわね……。わたくしたちは……。
 同じ『心の傷』を持ち。それを憎んで、争って。そして、夏海さんだけは……今、その傷を乗り越えた『向こう側』にいらっしゃるのでしょう。
 だからこそ、わたくしはこんな風に言いました。
「……また来ましょう。何度でも。今日はわたくしでしたが、桜雨さんや八矢さんを誘っても、きっと喜んでくださいます。もし断られたら、わたくしが何度でもご一緒して差し上げますわ」
「……ありがとう。でも、それはできないんだ」
「……? なぜですの?」
「冬坂が最初で、最後だから」
 問い返そうとしたわたくしの声に、園内のアナウンスが重なりました。

『まもなく終了時刻です。当園は××年間の営業を終え、本日で閉園となります。ご愛顧いただきました皆さまには、スタッフ一同、心よりの感謝を――』

「――――――」
「今日で終わるんだよ、ここ」
 頭が真っ白になりました。
 そして、次に浮かんできたのは……理不尽な怒りでした。
「――――っ。では、どうしてっ!? どうして、わたくしを誘ったのですっ!? そんな大切な場所!! 今日で最後なら、桜雨さんと――!!」
「……冬坂も、同じかと思ったから」
 困ったように苦笑しながら「俺の思い違いだったみたいだけど……」と続ける夏海さん。
 わたくしの、ため――――
 今日の出来事が、わたくしの中で繋がっていきます。

 放課後、美硯先生のプリント運びを断っていたのは、今日が最後の日だったから。
 夏海さんから手を繋いできたのは、子どもの頃にそうしてほしかったから。
 メリーゴーランドに誘ったのは、あの頃の夢を叶えたかったから。
 ワクワクする食事を予約したのは、思い出の味が知りたかったから。
 そして、わたくしを誘ったのは――わたくしにも、そんな経験が必要だと思ったから。

 生まれて初めて、自分の無能さに腹が立ちました。
 そして気づいたのです。
 わたくしが、如何に自分のことしか考えていなかったかを。
 夏海さんはずっと、わたくしの『幸せ』を考えてくださいました。
 わたくしにもそういった思い出がないのではないかと考え、桜雨さんでも八矢さんでもなく、わたくしを最初で最後のデート相手に選んでくださいました。
 電車の時刻を調べ、お店を予約し、道中もわたくしが退屈しないように気を遣って。メリーゴーランドに乗ったことがある、親と遊園地に来たことがあるとわかったら、もう遊具で遊ぶのをやめて、食事で楽しませようと注力してくださいました。
 それに引き替え、わたくしはなんなのでしょう。
 夏海さんの親愛に甘えて、好き放題して。
 素直になれず、憧れだったメリーゴーランドも拒絶して。
 ただ美味しい料理を食べるだけで。
 ちょっと桜雨さんの話が出れば、不機嫌になって。
 夏海さんの最初で最後、人生で一度きりの思い出を……台無しにしてしまいました。
 恋人のことをよく見ていないのは、どちらですか。
 気づくきっかけなんて、いくらでもあったはず。
 過去に夏海さんを変えたのは、桜雨さん。
 今の夏海さんに最も影響を与えているのは、八矢さん。

 だけど、わたくしだけが――未来の夏海さんと『心の傷』を共有できたのに――!!

「…………冬坂?」
 悔しくても涙が出るのだと、初めて知りました。
 にじむ視界はそのままに、〈学生証〉で時間を確認します。閉園時間の五分前。ずいぶんと、ゆっくり食事をしてしまいました。
 その食事時間。そして、デザートの注文だけ別だった意味は明白。
 当初の計画では、もっと遊具に乗って遊ぶ予定だったのでしょう。しかし、わたくしがメリーゴーランドを断ったから、急遽、予定を変更したのです。
 わたくしでさえ、もっと遊具で遊びたいと思いました。であれば、この遊園地に思い入れのある夏海さんは、なおさらそう思っていたはず――!
 わたくしはテーブルマナーなど忘れて、大きな音と共に立ち上がりました。
「すみません! 急用ができましたの!! デザートはキャンセルさせてくださいっ!!」
 大声で叫ぶと、カウンターから店主さんが顔を出します。
 わたくしの形相からただ事ではないと悟ったのか、気軽な調子で手をあげて応えてくださいました。
「お金はここに置いておきますわ! ありがとうございます! とっても美味しかったですの!!」
 お財布から全てのお札を取り出し、テーブルに置きます。
 次いで、夏海さんの手を取って駆け出しました。
「とっ、冬坂っ!? どこ行くんだ!?」
「――――っ」
 返事はできません。
 走る速さは、夏海さんの方が上のはず。でしたら、わたくしの走る速度がそのまま、二人の移動スピードです。
 頭の中で園内の地図を広げ、現在地をマークします。
(ここから一番近い遊具は――――観覧車っ!!)
 夏海さんもなにかを察してくださったのでしょう。
 それ以上はなにも言わず、ただわたくしの速度に合わせてくださいました。
 そうして、ついに見えてきた、その場所で。
 今まさに、園内のスタッフさんが乗り場を施錠していらっしゃいました。

(――――っ! こうなったら、お金でこの遊園地ごと――――!!)

 反射的に浮かんできた考えを、頭を振って追い出します。
 そんなことをしても、きっと夏海さんは喜んでくれません。
 それに、こんなやり方では……いつまで経っても、変われない。
 夏海さんが『数学』を捨てたように。
 きっと今、わたくしも『冬坂』を捨てる時が来たのです。
 勢いそのままにスタッフさんの元へ駆け寄ると、わたくしは精一杯頭を下げました。
 汗まみれで。涙がにじんでいて。髪はボサボサで。衣服は乱れていて。息も上がっています。
 無様で、不恰好で、情けなくて、恥ずかしくて、ボロボロで、余裕がなくて、ちっとも優雅じゃない、ただの女の子のまま……わたくしは途切れ途切れに叫びました。
「おねがいっ……しますっ……! のせてっ……くださいっ……!!」
 こんなにも対人関係が怖いと思ったのは、人生で初めてでした。
 これまでは相手がなんと言おうと、最終的には力でねじ伏せればよかったのです。
 しかし……今は、違います。
 わたくしたちの命運は今、全て目の前のスタッフさんに握られています。
 もし彼が『NO』と言えば、夏海さんの大切な思い出が台無しのまま終わってしまいます。ですが……そうなる可能性は高いでしょう。小さな観覧車ですが、どう見積もっても五分で一周できるとは思えません。営業時間は終了してしまうのに、だれが好き好んでサービス残業するでしょうか。
 それなのに、そのスタッフさんは静かに頷くと……乗り口に掛かっていた鎖を外してくださいました。
「いいですよ。乗っていってください。最後のお客さんだ。歓迎します」
「――――っ」
 今度こそ、涙が溢れました。もう誤魔化すこともできません。
 わたくし、夏海さんと出会ってから、泣いてばかりですわね……。
「良い旅を」と微笑むスタッフさんに見送られ、わたくしたちは観覧車のゴンドラへ乗り込みました。
 無事に乗せてもらえたことに安堵し、ほっと一息ついていると……対面の座席に座った夏海さんが「……ぷっ」と吹き出しました。
「…………?」
「いや、ごめん。そんなボロボロになってる冬坂、初めて見たからさ」
「――――っ!?」
 わたくしは慌てて、髪の毛や衣服を整えます。
 顔を拭くため、バッグからハンカチを取り出そうとしましたが……バッグが見当たりません。左手にあるのは、空っぽの財布だけ。……どうやら、マクドのお店に置いてきてしまったようです。
「はい、これ」と言って、夏海さんがハンカチを差し出してくださいます。見透かされたようで恥ずかしくなり、「勘違いしないでくださいましっ! これは――」と言いかけるも「うん、わかってるよ。ありがとう」と返されてしまいました。
 どうやら、本当に正しく理解されているようです。
 これだから、『鋭い系主人公』は……。
「おー。なかなか、いい眺めだ」
 立ち上がった夏海さんが、窓の外を見ながら呟きます。
 身だしなみを整えるわたくしから、目を逸らしてくださったのでしょう。色々と落ち着いたわたくしも、彼の視線の先を追いました。
 夕陽は地平線の彼方にわずかな橙を残すのみ。
 街が夜を迎える準備を始め、家族団欒の明かりがポツポツと灯り始めます。
 まだ賑わいのある商店街。行き交う人々。
 だれかがだれかに手を振って。美味しそうな匂いに釣られただれかが振り返ります。
 みんなの楽しそうな笑い声まで聞こえてきそう。
「……いい街ですわね」
 言ってしまってから、夏海さんにとっては違ったのかも、と不安になりました。
 でも、
「うん、そうだな。俺もそう思う。みんな、だれかを支えて。だれかに支えられて。そんな風にして、生きてるんだよな……」
 そんな風に言ってくださいます。
 わたくしも先ほどのスタッフさんを思い浮かべて、そう思いました。
 しかし、その次に浮かんだ顔には……罪悪感を覚えてしまいます。
「……わたくし、今日……クラスメイトの男子に、ひどいことをしましたの」
「そうなんだ。どんなことをしたのか、聞いてもいいか?」
「せっかくデートに誘ってくださったのに、冷たくお断りしてしまいましたわ」
「はは。冬坂って、そういうとこあるよなー」
「……幻滅されましたか?」
「まさか。そんなことくらいで、嫌いになんてならないさ。その男子には明日、謝ってあげなよ。ちゃんと謝れば、許してくれるさ」
「そういうもの……なのでしょうか……?」
「そういうものじゃない? たぶんね」
 過ちを、許してもらえる。
 それは、『完璧』を目指す冬坂とは、真逆の考えのように感じました。
(でも……そうなのかもしれません)
 わたくしを救ってくださった、夏海さんのように。
 先ほどのスタッフさんのように。
 わたくしの知らない人たちが、わたくしとは違った方法で、今日もだれかを幸せにしているのかもしれません。
 そんな風に考えると……なんだかとても、あたたかな気持ちになりました。
「――――うわぁっ!?」
 直後、ゴンドラが大きく揺れ、観覧車全体が停止しました。
 わたくしたちのゴンドラは頂上だったので、特に揺れが大きかったのでしょう。立ち上がっていた夏海さんはバランスを崩し、わたくしの方へ倒れ込んできます。
「なんだ!? 故障!? 営業最終日に!?」
 安全を確かめるため、夏海さんがゴンドラ内や観覧車全体を観察します。
 わたくしは無意識に役割分担をして、地上へ視線を投げたのですが……先ほどのスタッフさんが脱いだ帽子を手に取り、大きく二、三度、こちらへ振ったのが見えました。……きっと、あの方のサービスなのでしょう。なんて優しい世界……。
 わたくしはそっと、夏海さんの首に手を回しました。
「……? 冬坂?」
「閉園する遊園地に二人っきり。頂上で停まった観覧車。地平線に沈む夕陽と街の灯り。もうすぐ一番星が光り出す空。……とってもロマンチック。これでなにも起きないのは、うそですわ」
「……えっと?」

「――――キス、してみませんか?」

 夏海さんの目をじっと見つめたまま、そう言いました。
 男性はうそをつく時、目を逸らす傾向にあるそうですが……女はうそをつく時、真っ直ぐに目を見つめる傾向にあります。
 だから、自然体で大丈夫。
「安心してくださいまし。ただの練習ですわ。桜雨さんにも八矢さんにも、内緒にしてさしあげますの」
「……いや、でも――」
「いざ、桜雨さんとそのような雰囲気になった時、上手くできますの? せっかくの機会ですのよ? わたくし、こう見えても、キスは上手な方ですわ」
 ……うそです。
 キスなんて、一度もしたことがありません。
 ですが、こうでも言いませんと、夏海さんは決して、してくださらないでしょう。
 彼の想い人は、ほかにいるのですから。
 …………しかし。
「……ダメだ。正直、冬坂のことは女の子としても魅力的だと思っている。だけどそれ以上に、冬坂は大切な『仲間』――『友達』だ。友達を傷つけることはできない。冬坂も、もっと自分を大切にしてほしい」
 間近で見つめ合ったまま、夏海さんがそう言います。
 目を逸らさないのは、これが夏海さんの本心である証。
 まったく……不器用な人。据え膳食わぬは男の恥、ですわよ?
 でも、そんなあなただから、わたくしは――
「……仕方ありませんわね。でしたら、抱きしめてください」
「え……?」
「まさか、嫌とは言わせませんよ? 屋上では、夏海さんからしてこられたのに」
「いや、あれは――!?」
「これ以上、女のわたくしに恥をかかせるおつもりですか?」
「〜〜〜〜っ。……わかったよ」
 降参したように、夏海さんがわたくしの肩に手を回してくださいます。
 そう。これは、恋のゲーム。
 男女の駆け引き。
 最初にキスをねだったのは、このための伏線ですわ。
 キスを断った以上、ハグは断れないはず。
 ……でも残念。わたくし、悪い女ですの。
 体勢を変えるように、少しだけ身をよじります。
 夏海さんも、わたくしが苦しいとでも思ったのか、少しだけ腕の力をゆるめ、そして――

 ――――ふちゅっ。

「とっ、冬坂っ!!?」
「あら。すみません。体勢を変えるつもりが、夏海さんの頬に触れてしまいましたね。事故ですので、気になさらないでくださいな」
 ……うそです。
 どうしても今日の『思い出』がほしくて……ずる賢く、口づけを捧げました。

『冬坂麗華』を始めて、今年で十六年。
 わたくしはようやく、本当の冬坂麗華を始められそうな気がしておりますの。

 大好きな人の腕の中で、そんなことを思います。
 あの日、屋上で夏海さんが言ってくれたように……わたくしはこれから『幸せ』になるのでしょう。

 たとえ、あなたの好きな人が、ほかにいても。

 今だけは、わたくしがあなたの『カノジョ』なのですから。


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