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【畑の生活】ネイキッドな場所

長靴に履き替えて畑に出てみると、バインダーが数本外れてビニールのアーチの片側が大きく捲れあがっていた。風に煽られたらしい。土に刺さって綺麗なアーチをつくっていたバインダーの一方が土から抜けて、真っ直ぐになってしまっている。壊れたビニール傘みたいでなんともみっともない。さて、どうしようかなと考えていると長老がやってきた。長老はビニールが肌けた畑を見て「風が強かったからな。」と言った。ここ数日、ぐっと冷え込みが増していた。農園は山の中にあり街よりも寒い。畑の短い秋は終わり、長い冬が始まっている。

農園は山道を脇に入ったところに開けているのだが、この脇道を入った瞬間にスマホは圏外になる。下界との通信は完全に絶たれる。電波とwi-fiに頼って生きてる僕らにとって、やはり農園は異界だ。特に不便ということもないのだが、なんだか心もとない感じはある。これは病だ。僕らは世界に通信というフィルターをかけて生活している。農園は通信が届かない。つまり、世界がありのまま存在している。ネイキッドだ。ここではプラスチックのバインダーやビニールなんか簡単に吹き飛ばしてしまう風が吹いている。晴れのち雨や、最高気温が何度で、最低気温が何度といった情報ではない、圧倒的な現実があるだけだ。農園が異界なのではなく、むしろ通信というフィルターを通して世界を知覚することが普通になっている世界こそが異界だ。通信エリアは拡大、増殖している。そう遠くない未来に世界は通信のフィルターに包まれてしまうだろう。それは時間の問題だし、あらがうことはできない。こうしてnoteを書いている僕自身もその恩恵にあやかっている身だ。この農園という真にネイキッドな場所は遮断された異界ではなく、通信のフィルターに包まれた世界に残された僅かな隙間だ。聖域、サンクチュアリ。それは外側から隔離されているというよりも、むしろ内側からある種の結界を張っている。僕は世界の隙間にある裸のサンクチュアリで、世界のありのままの姿を見届けたい。

スマホが使えない畑という聖域のなかで、僕は方角すらわからなかった。エンドウ豆の苗に長老が教えてくれた稲藁の風除けをつくろうにも、北がどちらかわからないとつくれない。コンパスを持ってこなくちゃなと思っていたが、ビニールが捲れあがっているのを見てスマホもコンパスも必要ないことに気がついた。冷たい北風がどっちから吹いたのかは一目瞭然だ。方角は風がちゃんと教えてくれている。

捲れたビニールのなかを覗き込むと、小カブやハツカ大根の葉は一段と大きくなり、ほうれん草、小松菜、チンゲンサイの葉物三銃士もぐんぐん成長している。長老は相変わらずほうれん草を羨ましがっている。サラダ王国のベビーリーフたちはこんもり茂ってもう食べ頃だ。いよいよ初めての収穫だ。持ってきたハサミを手にするが、さてどう切っていいものか正直わからない。僕は野菜の知識がなさすぎて、切ったらどうなるのか、枯れるのか、また生えてくるのか、根っこから抜いたほうがいいのか、到底検討もつかない。もちろんスマホで調べることはできないし、調べる気もない。これはフィールドワークだ。知識なんていらない。実践と経験を蓄積して知恵にしていく。サラダ王国の畝は種を筋撒きにしてあるので3本の筋がある。なかなかの量のベビーリーフが生えている。失敗も成功もない。僕はとりあえず思うがままにハサミでベビーリーフを摘んでいく。細い茎を断つ音。大地から切り離される。植物が収穫物に変わる瞬間。茎を切ってみたり、葉だけを摘んでみたり、いろいろ試しながら収穫を進める。ひと筋で相当な量のベビーリーフが獲れた。毎日サラダを食べても1週間は保つだろう。「だいぶ獲れたな。」長老は新聞紙に包まれたベビーリーフを覗き込む。「どれ。」と言って長老は葉っぱを一枚掴み口に放り込んだ。僕も同じように1枚食べてみる。咀嚼、咀嚼、咀嚼、ベビーリーフ、味そのものは知ってる味だ。でも、何かが違う。噛めば噛むほど今摘んだばかりの瑞々しい緑の香りが溢れ出し鼻腔に広がっていく。美味い。僕はもう2、3枚ベビーリーフを口に入れる。芳しい。「サラダで腹一杯になるな。」長老は笑った。

長老は子どもたちを連れて自分の畑の大根と里芋を獲らせてくれた。また、別の畑の人がニンジンとサツマイモをお裾分けしてくれた。畑に通うようになってから、手ぶらで帰ったことがほとんどない。いろんな人が何かしらくれる。みんな口を揃えて言うのは「自分のところじゃ食べきれないから。」それは単に余ったからあげるということではなくて「お裾分け」シェアだ。おそらく、みんな自分たちが食べられる分以上に野菜ができることはわかっている。それでもつくるのは、お裾分けを前提に野菜をつくっているからじゃないだろうか。もちろん義務でやってるわけじゃない。畑のなかに自然に発生している経済のカタチだ。たとえ自分たちでつくった野菜であってもそれは大地の恵みであって自分たちの所有物ではないことをみんな経験則として知っている。みんな気前がいい。ネイキッドな世界では本質的に所有という概念が存在しないからだ。必要以上に蓄えたところで畑の収穫物はやがては腐る。ここでは資本や所有はなんの役にも立たない。経験と知恵にこそ敬意が支払われ、それぞれがそれぞれの収穫物を持ち寄りシェアすることで裸の経済を生み出し循環している。

収穫物をたっぷりお裾分けしてもらった帰り際、子どもたちが長老に手を振る。「畑の恵みをじっくり堪能するんだぞ。」そう言って、長老も手を振った。

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