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【畑の生活】記憶という香り

つい数週間前まで農園のなかでぽっかり何もなかった空間は、ほんの少しだけ畑らしくなってきた。耕し、土をつくり、種と苗を植え、ビニールハウスを立てると、空間の広がり方がまるで違う。それは「更地」と「何かが植わっている状態」という3次元的な視覚認識の差だけでなく、ここに至るまでの段階と時間、記憶の層が、僕の知覚する畑という空間を膨張させているのかもしれない。

冬の間の水撒きは、2週間に1度くらいでいいと長老は教えてくれた。水は毎日あげるものなのかと思っていたが、そもそも自然の中では誰かが水をやるわけではない。雨が降れば、大地は水を蓄える。表面の土が乾いているように見えても土の中は温かく、しっかりと水を含んでいる。大地は水を記憶している。

冬支度はひととおり落ち着いたので、いま特にやっておかないといけないことはないのだが、畑の状態は気になるし、なにより芽はどれくらい成長したかが楽しみなので1週間ぶりに畑に行く。今日は長老の白い車は止まっていない。来てないようだ。他の畑の人たちと軽く挨拶を交わす。僕は新米なのであまり親しい人はいないのだが、みんな適度にコミニュケーションはとりつつも、基本的には自分の畑仕事に専念している。僕はこの距離感がいいなと思った。同じ大地の上に、それぞれがそれぞれの畑をつくっている。適度な距離を保ちながら、なんとなくつながっている。ここには無関心でも馴れ合いでもない、人と人との自然なディスタンスがある。

ちいさなビニールハウスは風に剥がされることもなく、1週間前と同じようにしっかりと立っている。ひと安心だ。ビニールの内側は水滴がいっぱいで中はよく見えない。ビニールをアーチに沿ってめくりあげると、なま温かく湿った空気が、ふわっと僕の顔を包んだ。生々しい緑の匂いが、僕の鼻腔を通じて直接脳に届く。1週間の生の記憶が、僕の記憶と結合する。爆ける。瞬間。緑の閃光。目眩。とてつもなく芳しい生の記憶が塊となって空間を立ち上げる。そこには瑞々しい葉の群れがこんもりと存在している。大地の記憶を吸い上げ茎と葉脈の中に流れた時間が、新たな記憶として僕に届く。僕は大きく息を吸い込み、もう一度その香りを肺いっぱいに取り込む。緑の記憶が僕の青い血管を通して血液のなかに溶けていく。あたたかい何かが僕のなかを流れるそのすぐ隣で、僕はあたたかい何かの中に流れているような気がした。

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