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【畑の生活】アートとサイエンス

畑初日、とにかく畑に種をまけば良いのだと思っていた。僕は畑についてなんにも知らない。長老から初日は長靴だけ持ってくるように言われていたので、教え通り近所のホームセンターで買った長靴を持って畑に向かう。シャーマンロードはくねくねと蛇のようにうねっている。途中、道路の真ん中にキツネの死骸が横たわっているのを見た。車に轢かれたのだろうか。あっけない。キツネは雄なのか雌なのかもわからない。親なのか子なのか。この山の中でどんな風にして生きていたのだろう。死骸はアスファルトには還らない。死骸は死骸のまま腐敗していく。僕はぼんやりと考えながら、くねくね道を進んでいく。

畑に到着すると、長老はすでに自分の畑の草を刈っていた。長老はいつも麦わら帽子に青い上下の作業着を着ている。ご時世柄なのか顔には胸元まであるひらひらした農業用のマスクをしており、マスクと麦わら帽子の隙間から目だけがのぞいている。「指輪物語」に出てきそうなスタイル。正直、長老がどんな顔をしているのかわからない。街で会っても気がつかないかもしれない。長老はこの農園という空間においてのみ長老として存在している。腰には腰巻きエプロンが巻かれており、ハサミやら僕には使い方もわからない道具が入れられている。長老は必要に応じてさっと道具を取り出す。うちの子どもはその腰巻きから出てくる道具に興味津々で、僕と長老が話している時、勝手に腰巻きの中の道具を取り出したりする。「勝手に触っちゃ、だめだよ。」と、僕は子どもを諫めつつも、どちらかというと人見知りなタイプな子どもが他人の身につけているものをなんの躊躇もなく触るということに少し驚く。長老は気にも止めず、話を進める。

僕に割り当てられた畑は40平米。10メートルの畝が4本並んでいる。あらためて眺めると広い。なにもないこの空間のなかに、野菜が育っていくのだと考えると不思議な気持ちになった。すでに畝はあるから、種を植えるのだと思い込んでいたが、長老はまずは土づくりからだということを教えてくれた。4本の畝のうち、2本はエンドウ豆や小松菜、玉ねぎなどの越冬野菜を植えて、あとの2本は春に夏野菜を植えるために寝かせておくのだという。とにかく育てれば良いのだと思っていたが、もちろん野菜には野菜ごとの種まきの時期と収穫の時期がある。それらをちゃんと読んだ上で、計画的に畑をデザインしていかないといけない。よその畑に目をやってみると、それぞれに個性がある。みんな、計画しデザインしながら自分の畑をつくっているということだ。僕は途方もない芸術に触れようとしているのかもしれない。

畝はあくまで目安で耕されているだけで、ここに野菜が育つ土をつくっていかないといけない。土づくりに必要なのは堆肥と牡蠣殻と肥料の3つ。僕は堆肥と肥料の違いもわかっていなかったが、堆肥は落ち葉や草や牛糞などの有機物を発酵させたもの、つまり死骸と排泄物だ。これらが土のなかで新たな土の循環をつくっていく。牡蠣殻は酸化した土をアルカリ性で中和する。こうしたサイエンスをおそらく昔の人たちは経験のうちに発見し伝えてきたのだろう。近代科学以前から、畑にはサイエンスがあった。畑のなかにはアートとサイエンスが同居している。宮沢賢治が生きている。

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