不思議の国の豊18/#ラジオな日々=ラジオ少年
前回は
ここまで、そして
#ラジオな日々 =ラジオ少年
ラジオ少年とでもいうのだろうか、僕は。
影仙頭の僕の幼友達で同級生の
真知子ちゃんの家は僕の家の隣だった。
門を出て、石垣苺を植えてある坂道を30秒ほど上ると
真知子ちゃんく(=の家)だった。
僕んくは、影仙頭の真ん中の標高を走る林道の下で、
影仙頭の一番奥に4件の家があったが、
その上から二番目だった。
真知子んくは、道のすぐ下
一番上だった。
その林道は真知子んくの道沿いの車庫から
10メートルほどの切通を過ぎると、
物部川が100メートルぐらい下に見える崖っぷちに伸びていた。
それを2キロほど行くと
例の河口小学校の上に行くのだ。
その真知子んくの車庫から北へ尾根が続いており、
僕んくの裏側の墓がいくつかある辺りから
急に尾根はなくなる。
尾根の南側は僕んくと真知子んくの家の裏の畑になっていて、
その反対側にちょっとした斜面があり
その先は崖で物部川に垂直に落ちていた。
僕んくは、部落で一番先に日が当たる日当たりが良いところだった。
影仙頭の東と南を高い山が囲んでいるためだ。
西は地平線があればそれより少し高いところまで
夕日が沈まなかった。
僕んくの裏の南向きの畑の斜面の上の尾根を越して
ちょっと降りた北東向きの斜面が近所のゴミ捨て場になっていた。
ゴミと言っても、
昭和30年代ころのことだから、
影仙頭の人はごみを出さない。
畑に戻せるもの、
山に戻せるもの、
風呂焚きで燃やせるもの、
屑鉄で売り払うもの、
プラスチックなんてほとんど見なかった時代だ。
それでも出たゴミが、
子供のブリキでできたおもちゃとか、
ラジオの壊れたのとか、
僕が小学校高学年になるころには
テレビの壊れたのとかが出始めた。
僕はそれを持って帰って、
直して使うのが好きだった。
おもちゃも、ラジオも、テレビも
買ってもらえないものがいっぱいあった。
それらは、正直ほとんど壊れてないものがあった。
飽きて捨てられたとか、
新しいものを買ったから、要らなくなったとか
そんな理由だったのだろう。
断線をつないだり、プラグやヒューズを付け替えたり
ねじをきちんと締めたり、つまみをつけると動くものが結構あった。
僕の村では3・4年生の時に有線電話と言うものが流行った。
それまでは、影仙頭に一軒ある店の横に公民館があり、
店のなのか公民館なのか知らないけれど、
タイアル式の公衆電話と言うものが一個あった。
みんなぁは、必要ならそこに電話をかけに行っていた。
しかし有線電話は、ほとんどの家に引かれた。
4桁の電話番号があるのだが、
前の二桁は集落や地区に割り振られた番号、
下2桁が各家の番号で、僕んくの場合は3602番だった。
その場合、もし電話がかかってくると、
交換手さんが3600番全部の家の電話のスピーカーで
「2番・二番・ニバン」 「2番・二番・ニバン」 と何回か呼ぶ。
そこで受話器を取ると、
相手と話ができる仕組みだった。
新しい電柱が経ち、その電話線がみんなの家の前を通っていた。
その電話線は銅線で裸だった。
スピーカーを動かす程度の電圧・電流だから
触っても感電することは無かった。
僕はそれを知っていた。
そして僕の勉強部屋のある二階の窓の前の屋根と、
その前にある風呂場の屋根の谷間を
その電線は通っていた。
ちょうど僕が屋根瓦の上に立てば
その線は眼の高さだった。
僕は科学の付録の鉱石ラジオのアンテナをそれにつないだ。
アンテナは基本的に長いほど感度が上がる。
それまで小さかった鉱石ラジオの音は大きくなった。
そして、例の「2番・二番・ニバン」も聞こえるし、
僕は中身に興味はなかったが、
通話内容も聞こえた。
僕はそこから交換手さんを呼んで、
友達の家に電話をかけてみた。
通じた。
そんなこんなで、僕と弟の勉強部屋は
八畳が二間ほどあったが、一部屋は
テレビやラジオや試験管やフラスコでいっぱいになった。
弟は日が暮れるまで外で遊ぶ子だったし、
夜寝るだけなので、文句も言わなかったし、
彼には多分どうでもいいことだった。
当時は不思議なことに薬局に行けば、
僕でも硫酸や塩酸やアンモニア水や過酸化水素などが買えた。
それらでいろいろ実験をするのが好きだった。
だから中学校に入る前に、当時発見されている
原子の周期律表は頭に入っていた。
そんなだから僕は自分専用のテレビが何台もあり、
当時3局しかなかった放送チャンネルを
全部同時に見ることもできた。
別にそれを同時に全部見ることはほとんどなかったし、
そんなことは僕には無意味だったが・・・
そのころの僕は科学者になりたいと思っていた。
僕の小学6年の夏休みの自由研究は
畳1畳ほどの木製の池を作って、
そこに綿などで箱庭を作り、
くねくね曲がった水路を作った。
そこに、プラモデルの船を浮かべ、
それが岸に当たることなく
スクリューで進んでいくものだった。
船の下に永久磁石をつけ、
水路の下には電気コードが水路に沿って貼られており、
交流を直流にして電気が流れていた。
その磁界に沿って船は進んでいたのだった。
ここで一番苦労し、時間がかかったのは、
箱庭の地形や色、水を洩れない状態で軽いものにすること
だった。
箱庭は自分で自転車に乗せて、持って行くつもりだったが、
それは無理だったので、
結局、おとうさんの軽トラで運んでもらった。
以下次号