園児としての「僕」と大人としての「僕」
覚えている最古の一人称は自分の下の名前だった。理由は簡単。みんな自分のことを下の名前で呼んでくるからだ。それをそっくりそのまま自分の呼称として使えば良いわけである。
これは幼稚園の年長さんあたりまで続いた。
流石に具体的な出来事としては覚えてないけど、誰かが一人称として「僕」や「私」を使い始めると園児たちの幼い羞恥心がざわつき始める。
「あれ?もしかしてじぶんのことなまえでよんでるの、へん?」
その羞恥心が年長さんクラス全体に伝播すると共に、各々こっそり一人称を変更した。自分の場合は「僕」だった。「俺」と「僕」の中では、「僕」の方が自分に合ってる気がしたんだろう。結局は羞恥心による変更だったけど、自分で選んで決めたことだった。
小学校。2年生になると後輩もできるためか、小学生男子には人生数回目のカッコつけたい波が押し寄せていた。ここで男子たちは一斉に一人称を「俺」に変更した。なんかカッコいい感じだったのだろう。一方自分はというとずっと隅でオドオドしている少年だったためカッコつけるもクソもなかった。とはいえ「俺」の集団に囲まれてしまうと仲間はずれ感がすごい。どうにかしなきゃ。みんなと同じにしなきゃ。
自分も思い切って一人称を「俺」に変えた。
・・・笑われた。すごく。
当然である。ずっと端の方にいるやつが急に「俺」なのだから。お前がカッコつけんなよという話だ。
ただ何故かこの小2の自分は頑固だった。笑われても「俺」を使い続けた。多分その一人称を使えば彼らの輪の中に入れるんじゃないかと思っていたのだろう。仲間になれる気がして。
その後も友達を作るために様々な人格を作ってきたが、そのどれも「俺」が妥当な人格だったため一人称が変わることはなかった。この友達を作るために変えた一人称は高校入学まで続くことになる。
高校。自分の行っていた学科は3年間クラス替えの無い仕組みだったため、自然とみんな仲良くなった。ここで自分は人生で初めて友達を作ることへのストレスから解放された。今まで相手に合わせてたくさん人格を変えてきた自分が、ここで初めて純粋な自分を出すことができた。
放課後の教室で友達の数学談義を聞きながら考えた。
「さて、純粋な自分ってどんなのだっけ?」
10年弱自分を失い続けてきたわけなのでそう簡単に思い出せるものではなかった。
記憶を巻き戻す。巻き戻す。。
巻き戻した記憶にいたのは小2の自分だった。みんなの輪の中に入れず、隅で面白くもない本を読んでいる(ふりをしている)自分。めちゃくちゃカッコ悪いしダサい。でもそれが限りなく純粋な自分だった。
そんな10年弱ぶりに発掘した自分に似合う一人称は、幼稚園の年長さんだった自分が選んだのと同じ、「僕」だった。
その高1の一学期から数年が経った今も、僕は「僕」の一人称を使い続けている。僕は今でも隅でウジウジしているし、高校とは違い周りには誰もいないけど、できればもう純粋な自分を埋める行為はしたくない。だからカジュアルな場での一人称は「僕」から変えたく無い。変わらないで欲しい。
変えてしまうと、せっかく2択から「僕」を選んでくれた年長さんの自分にも申し訳ないし。
これは余談だけど、実家では長らく一人称を使っていなかった。理由は簡単。一人っ子だからだ。区別を付けるべき兄弟がいないので、一人称なんて無くても親との会話は成立するのである。