人間の生の有難さ | 「菩提道次第廣論 暇満」
ツォンカパ大師『菩提道次第廣論』卷2「暇満」より抜粋
この貴重な人間の生について、『事教』には次のように述べられています。「悪趣(地獄・餓鬼・畜生)で死んで再びそこに生まれる者の数は大地の土のように多いが、そこから善趣(天・人)に生まれる者は爪の上の塵のように少ない。また、善趣で死んで悪趣に生まれる者は大地の土のように多く、善趣に留まる者は爪の上の塵のように少ない。」つまり、善趣と悪趣のどちらにおいても、そこから次に人間界の生を得ることは極めて困難なのです。
この理由は、『四百頌』に次のように述べられています。「人々の多くは立派な善行を積まず、不善業を行うため、ほとんどが悪趣に堕ちていく。」善趣に生まれた人々でさえも、十不善業(殺生、偸盗、邪淫、妄語、綺語、悪口、両舌、貪欲、瞋恚、邪見)を多く行い、素晴らしい徳を育むことが少ないため、再び悪趣に落ちることが多いのです。
さらに、もし菩薩に対して怒りの心を一瞬でも抱けば、阿鼻地獄で劫単位の長い間苦しみを受けなければならないとされています。それに加え、私たちの心の中には過去世から積み重ねてきた多くの悪業が存在し、その果報はまだ現れておらず、対処もされていません。したがって、多くの劫の間、悪趣から逃れることは難しいのです。
もし過去に積んだ悪業の原因を完全に浄化し、新たな悪業を防ぐことができるなら、善趣への生はそれほど困難ではありません。しかし、そのようなことを実行できる人は非常に少ないのです。もしこのような修行をしなければ、必然的に悪趣に堕ち、悪趣に入れば善行を行うことができず、悪業が続くため、多くの劫の間、善趣の存在すら知ることができません。これが、善趣に生まれることが極めて難しい理由です。
『入行論』にはこのように記されています。「私はこれまでの行いによって人間界に生まれることすらできず、人間界に生まれなければ、善を全く行えない悪趣のみが残る。もし善行を行う機会がある時に善を行わなければ、悪趣の苦しみによって覆い尽くされ、その時には何もできないのだ。善行を行うことができないまま、多くの悪を積んでしまい、百億劫の間、善趣の存在すら知らないであろう。」仏陀もまた「人間としての生は極めて得がたいものだ」と述べており、それはちょうど盲亀が大海の漂う木の穴に偶然頭を入れるように難しい、と比喩しています。一瞬の悪行でも、無間地獄で劫の長い間、苦しみ続けるのですから、無始以来積んできた数多の悪業によって、善趣に生まれることがどれほど難しいかは言うまでもありません。
もし「悪趣での苦しみを受けてしまえば、過去の悪業は尽きるので、いつかは善趣に生まれることができるだろう」と考えるかもしれませんが、実際には悪趣で苦しみを受ける時もさらに新たな悪業を生み、死んだ後も再び悪趣に転生することが多いのです。
このように、人間の生が得がたいものであると考えたならば、次のように念じ、仏法を修めることに心を向けるべきです。もし、この貴重な人間の体を悪業に費やしてしまうならば、それは無駄遣いでしかありません。むしろ、正しい法を修めることで、この貴重な時間を活かすべきなのです。
『親友書』には次のように述べられています。「動物界から抜け出して人間の生を得ることは、盲目の亀が大海の漂う木の穴に偶然頭を入れるよりもなお難しいものである。だからこそ、王よ、正しい法を実践し、その実りを得るように努めなさい。金の器に宝石を飾り付けておきながら、それを穢れたものを吐き出すために使うのは愚かであるように、人間界に生まれて悪業を行うことは、それ以上に愚かしいことである。」
また、博朵瓦(ボトワ)は次のような話を例に挙げています。「昔、マカカという名前の壮麗な館があったが、敵に奪われて長らく失われていた。ある老人はこの館に強い愛着を抱いており、後にその館が主の手に戻ったと聞くと、自分では歩けないにもかかわらず、杖を頼りに一歩一歩たどり着き、『マカカを再び得た、まるで夢のようだ』と喜んだ。今、私たちも人間の生という貴重なものを得ているので、同じように歓喜し、正法を修めるべきである。」